(最終更新日:2021/07/23) 山崎豊子の晩年の様子を、NHKクローズアップ現代の放送内容と毎日出版文化賞特別賞受賞時のスピーチ内容を中心にまとめた。(2,700文字)
「白い巨塔」、「華麗なる一族」、「不毛地帯」、「二つの祖国」、「大地の子」、「沈まぬ太陽」などで知られる国民的作家の山崎豊子(1924-2013)。亡くなった直後に放映された、NHKクローズアップ現代『小説に命を刻んだ~山崎豊子 最期の日々~』(2013年11月19日放送分)を視聴して刺激を受け、そのあとに見つけたスピーチを聞いて考えさせられた。
NHK「クローズアップ現代」で没後に自宅が初公開
番組では、生前プライベートな取材に応じることのなかった山崎豊子の大阪堺市の自宅に初めてカメラが入って書斎が公開されている。
晩年の山崎豊子は、全身を襲う原因不明の痛みに苦しんでいたが、起き上がるのが困難になったあともこの部屋にベッドを持ち込み原稿に向かったという。筆圧もなくなり、愛用の万年筆で書けなくなってからは鉛筆を握り、それも難しくなった最後は筆ペンで原稿を書いた。
NHKはこの番組が放映される3年前、つまり亡くなる3年前から山崎豊子に何度か取材を申し込んでは体調不良のため断られたのだが、毎回、直筆で丁寧な断り状が届いており、近況が書き添えられたその手紙も公開されていた。
亡くなる2年前には「次の作品は体力的にまったく自信がありませんが、趣味のないわたしは書き続けることしかありません。」とあり、その作品が「約束の海」。週刊新潮で新作を開始したのが2013年8月、88歳(戸籍上では89歳)。
XさんがX歳のときにXXXをした、と計算するのが昔からのわたしの趣味です。資料によって年齢がズレているので調べたところ戸籍上の誕生日が別にあったことを知りスッキリしました。
第1部全20話を書き上げた2週間後の9月末に他界している。「書かねばならない」と言いながら、最期の最期まで山崎豊子を突き動かしたのは、”巨大な権力が個人の人生を翻弄する不条理への怒り”であり、”山崎豊子にとって究極の不条理は戦争”だったという。
戦争の時代を生きたわたしを、書かなければならないという使命感が突き動かすのです。
山崎豊子
自宅に残されていた録音テープには、まだ若い頃の山崎豊子が「個人にとって国家とは何か、戦争とは何かと問いかける小説を書こうといたしました。」ときっぱりと語る肉声が残されている。
50年間彼女を支えた秘書が、山崎豊子の「先の戦争体験者として自分なりに考えたい。そしてそれを小説という形で世に問いたい。それがどんなに非難を浴びようがどうされようが、それは私の主張なんだから。一人の国民の主張なんだから。」という言葉を代弁しながら「ともかく山崎から戦争を抜きさることはできないです。」と語っていた。
”それがどんなに非難を浴びようがどうされようが、それは私の主張なんだから。”というセリフがカッコいいですね。
山崎豊子は、「作家バカ」と自称していたようだが、親しかった出版社の社長によるとこの言葉は、表面的には自分は家事も苦手だし趣味もないし他に取り柄がないというニュアンスでも、実際のところは、自分のすべての経験と持てる限りの情熱をひとつの長編小説に注ぎ込むという強烈な自負心の表れである。
(「クローズアップ現代」の内容はここまで。)
山崎豊子84歳時のスピーチ映像(2009)
山崎豊子は2009年(84歳)、長編小説「運命の人(全4巻)」で第63回毎日出版文化賞特別賞を受賞し、不自由な身体で贈呈式に出席している。欠席するつもりだったが、主治医の反対を押し切って大阪から東京まで「這うようにしてやってきた」とスピーチで言っている。
こちらの動画、1分45秒から始まる山崎豊子のスピーチの一部を、思わずもらい泣きしそうになりながら以下に書き起こしたが、全部で3分程度なのでぜひリンクをクリックして動画をご覧いただきたい。
上の写真には顔が写っていませんが、動画内で車椅子を押している女性が、「クローズアップ現代」に出ていた山崎豊子の秘書歴50年の方です。自分が表舞台に立たないこういう生き方も参考になります。
(前略)
付け加えるならば、わたしがこの歳まで書けてきましたのも・・・。
男子学生は雨の中、宮中の前で、ザクザクと足音を立てて出陣していきました。
あのことと、死んでいった男子学生と、私(わたくし)たち女子学生は・・・(声を詰まらせる)
・・・私たち女子学生は徴用されました。
私(わたくし)も弾磨きをいたしました。
人を殺す弾を磨きました。(嗚咽)
そして、あまりの苦しさに、さぼって自分の部屋でバルザックの「谷間の百合」を読んでおりましたら、担当将校に見つかって左、右と殴られて、その場で倒れてしまいました。
その日から、わたしの書く方向をはっきり覚悟しました。
【※とーなん注:太平洋戦争が始まったのは山崎豊子が女学校に通っていた17歳のときで、軍事工場に動員された。】
みなさん、ありがとうございます。
あとは、村上さんのお言葉をもって代えさせていただきます。
【※とーなん注:同じ席に『1Q84』(いちきゅうはちよん)で第63回「毎日出版文化賞 文学・芸術部門」を受賞した村上春樹がいて、山崎豊子の前にスピーチをした。】
(秘書に車椅子を押されていったん下がっていくが、再び戻ってくる。)
もう一言付け加えたいことがあります。
もし神様がお前に何かやるから言ってみろと言われたら、私は、私の失われた青春を返してくださいと言いたいです。
青春という意味は、繰り上げ卒業でちゃんと勉強できなかったことと、小説を読む時間も少なかったこと(などです)。本当に神様に、私の青春を返してください、もっと勉強したかったという一言でございます。(嗚咽)
ありがとうございました。
このような晴れ舞台で、喜びよりも悲しみを訴える姿に考えさせられました。
同じように戦争を経験した人は大勢いても、これほどの問題意識を持ち、さらに生涯かけてその不条理を追求し続ける人となるとほとんどいないですが、コロナの不条理についても、問題意識を持つ人は少ないですよね。
今、山﨑豊子が生きていたら、このコロナ時代をどう見たでしょうね。JALを批判した「沈まぬ太陽」のように、今のNHKを舞台にしたNHK批判小説を書いてくれたかもしれないなぁ、なんて。(笑)
※参考
●小説に命を刻んだ~山崎豊子 最期の日々~(NHKクローズアップ現代)
●山崎豊子さん、第63回毎日出版文化賞で特別賞(2009年11月撮影)
●ウィキペディア
「大地の子」のドラマを勧められて見始めたのがきっかけで、この記事を書きました。山崎豊子が8年の歳月を費やして完成させた長編「大地の子」は、「山崎豊子の戦争三部作の頂をなす」と評されていて、山崎豊子は「命をかけて書いた」と言っています。
「大地の子」のドラマ版はNHKオンデマンドで視聴可能ですので、本は無理でもドラマだけでもおススメです。ドラマは全部で11時間半ありますが、山崎豊子が8年かけたことを思えば短いものですし、引き込まれて一気に観れますよ。
実はわたしはYoutubeで「大地の子」を全部観ました。著作権のことはよくわかりませんが、削除されていなければまだあると思います。
20代のころ読んだ山崎豊子の「大地の子」は、著者のマグマのように燃えたぎる執念を感じ、本に対する価値観を変えた一冊です。 戦争に対する思いだったのですね。このコラムを見てハッキリしました。
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