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女運はなかったノーベル賞のノーベル

アルフレッド・ノーベル(Alfred Bernhard Nobel, 1833年10月21日 – 1896年12月10日)は、ダイナマイトの発明で知られるスウェーデンの化学者、発明家、実業家。

ボフォース社を単なる鉄工所から兵器メーカーへと発展させた。350もの特許を取得し、中でもダイナマイトが最も有名である。ダイナマイトの開発で巨万の富を築いたことから、「ダイナマイト王」とも呼ばれ、遺産を「ノーベル賞」の創設に使用させた。

巨万の富を築いたノーベルは生涯独身で、子供はいなかった。孤独な性格で、一時期はうつ病になっていたこともある。伝記によれば、生涯に3度恋愛したことがある。

最初の相手は、プロポーズを拒絶

最初の恋愛相手のロシアの娘アレクサンドラは彼のプロポーズを拒絶した。

二番目の片思いの相手はノーベル平和賞を受賞

43歳のとき、結婚相手を見つけるために、女性秘書を募集する広告を5ヶ国語で出し、5ヶ国語で応募してきたベルタ・キンスキーという女性を候補とする。しかしベルタには既に婚約者がおり、ノーベルの元を去って結婚した。つまりこの関係もノーベルの一方的なものであったが、ベルタが「武器をすてよ」などを著し平和主義者だったことが、のちのノーベル平和賞創設に関連していると考えられている。ベルタは1905年に女性初のノーベル平和賞を受賞。

三番目の相手との関係は18年続いたが・・・

上述のベルタへの想いが届かなかった43歳(1876年)のとき、ノーベルは当時20歳のゾフィー・ヘス(Sofie Hess)と出会い、交流が始まる。ゾフィーとの関係は18年間続き、218通の手紙を残した。しかし1891年(58歳)に、ゾフィー(35歳)が他の男(ハンガリー人の騎兵隊の将校)の子供を宿していることが分かり2人の関係は急速に冷えた。その後、ゾフィーはこの子供の父親と結婚。ノーベルの死後、ゾフィーはノーベルからの手紙をノーベル財団に高額で買い取らせることに成功し、この手紙の売却により巨額の財をなした。この手紙はノーベル財団により1955年から公開もされている。

1896年にノーベルがイタリアのサンレーモで63歳で死んだとき、死の床には召使がいただけだったという。兄と母の死をきっかけとして長年居住していたパリからイタリアに移住したのは、ノーベルが58歳、ゾフィーが別の男の子供を身ごもった年であった。

このページは、ウィキペディアの内容を参考に、抜粋しながら一部加筆してまとめた。文中掲載写真の出典もウィキペディア。

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