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ノーベル賞作家のさすらい、「霊山」に見る己との徹底対峙

私とおまえ、そして彼女

長々しい孤独の独白

81章からなる長編小説「霊山」は、章ごとに一人称の「私」と二人称の「おまえ」が交互に主人公として現われる。途中までは、「私」と二人称の「おまえ」の間に接点はなく、関係も明確にされていないため、読者は私とおまえは同一人物なのだろうか?と頭の片隅で思いつつ、不思議な感覚でふたつの世界を行ったり来たりすることになる。辻仁成が「わけのわからない怪物」とこの作品を称したわけのわからなさのゆえんのひとつでもある。

52章で、私とおまえの関係が解き明かされたとき、読者のわたしには「やっぱり」という以上の衝撃があった。「私」と「おまえ」だけでなく「彼女」もまた作者の分身だったからだ。

ユング心理学っぽいなぁという衝撃というか、嬉しさでした。(笑)

おまえは知っている。私は独りごとを言って自分の孤独を慰めているにすぎない。おまえは知っている。私の孤独につける薬はない。誰も私を救えない。私は自分自身を話し相手にするしかないのだ。
 おまえは私の長々しい独白の聞き手、私の言葉に耳を傾ける私自身だ。おまえは私の影にすぎない。
 私自身であるおまえの言葉に耳を傾けるとき、私はおまえに「彼女」を作り出させた。なぜなら、おまえも私と同様、孤独に耐えられず、話し相手を求めていたから。
 そこで、おまえは彼女を相手に語った。ちょうど、私がおまえを相手に語ったように。
 彼女はおまえから派生し、私の自己確認の証となる。
(中略)
私は旅の途中にある。人生もまた、結局のところ旅なのだ。想像にひたりながら、私の影であるおまえと一緒に内心の旅をする。

「霊山」335-336ページ

「私」は分身である「おまえ」と内面の旅をしながら、「彼女」とは霊山への旅をするのだが「彼女」もまた「私」の分身であると思えば、旅への誘い文句もまた違った風に味わえる。

一緒に河を渡ってくれないか?
対岸に「霊山」と呼ばれる山があるんだ。
いろんな神秘を目にすることができるよ。
苦しみを忘れることも、解脱を得ることも可能だ。

「霊山」79ページ

日本語訳の「おまえ」という単語の響きがイマイチしっくりこないので、中国語の原文を調べました。
確かに日本語に訳すなら「おまえ」になりますが、どちらかというと「あなた」という響きにも近い、「おまえ」よりもう少し軽やかな響きです。

哲学と小説

哲学は結局のところ、一種の知的ゲームだ。それは数学と実証科学の手の届かない周縁にあり、各種の精緻な枠組みを作り出す。この枠組みが完成したとき、ゲームも終わりとなる。
 小説が哲学と異なるのは、それが感性から生まれることだ。気ままに考案された信号を欲望の溶液の中に浸透させると、いつの日か、これが予定通りに細胞となり命が生まれる。その誕生と成長を見守るのは、知的ゲームよりさらに面白い。だが生命と同じように、最終的な目標はないのだった。

「霊山」338ページ

心理学も哲学と同じで、知的ゲームにとどめてしまうとそれで終わりです。心理学の知識を参考にしながらも、ひとりひとりが自分の物語を作っていくことがメインであること、その物語にもやはり最終的な目標なんてないのだということを思い出させてもらいました。

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