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ノーベル賞作家のさすらい、「霊山」に見る己との徹底対峙

著者 高 行健と「霊山」の背景

高 行健 Gao Xingjian
(2012)

高 行健(こう こうけん、ガオ・シンジェン、1940年 – 現在81歳 )は北京外国語大学フランス語学科を卒業し、70年代末に、モダニズム小説の作家として登場している。「霊山」の執筆を開始したのは1983年、43歳のときで、北京人民芸術劇院の劇作家として活躍していた当時、不条理劇「バス停」が政治的な理由で激しい批判にさらされ、北京人民芸術劇院で上演禁止となったのがきっかけだった。彼は祖国を離れてパリに渡り、この長編小説が完成したのは1989年、パリにおいてであった。

2000年に華人としては初のノーベル文学賞を受賞したが、高 行健は中国では「祖国を捨てた政治亡命者」として全作品が発禁扱いの憂き目に遭っており、「中国人」と見なされていない。1998年にフランス国籍を取得しているとはいえ、48歳まで名実ともに中国人だった作家の中国語で書かれた作品が世界で高く評価されたにもかかわらず、ノーベル賞受賞のニュースは中国では無視され取り上げられなかったという。
6歳で渡英し、英語で小説を書いている英国籍のカズオ・イシグロがノーベル賞を受賞したとき日本人がもてはやしたのと対照的だ。

この背景をふまえて「霊山」を読むと、このような箇所も胸に迫るものがある。

おまえはいつも自分の幼年時代を追い求めている。

「霊山」347ページ

高 行健はノーベル賞受賞講演の中で、こう述べている。

長編小説「霊山」はまさに、厳しく自己検閲をした私の作品が発禁になってしまったときに書き始めたものです。それは純粋に心の中の寂寞をまぎらわすために、自分自身のために書いたのであって、発表の可能性は、まったく期待していませんでした。

「霊山」翻訳者 飯塚容の解説より

これと類似した内容は小説「霊山」内にも見られる。

私が小説を書くのは寂寞に耐えられないからで、そこに楽しみを見つけました。思いがけず、文学界に足を踏み入れたものの、いまはそこから這い出そうとしています。これを書いているのは、生計のためではありません。小説は私にとって、生活費をかせぐこととは無縁の、一種の贅沢なのです。

「霊山」487ページ

高行健のインタビュー

このブログで知った高行健に興味を持ち、Youtubeで中国語のインタビュー動画を視聴してみました。

高行健が、自由を選ぶということはそれに伴う孤独に耐えなければならないと言っているのを聞いて、腑に落ちたことがあります。

私は今、「子供を積極的には作りたくない」と思っているのですが、自分の意志を尊重し責任を持ってこの心の声に従うのであれば、後に、後悔がやってきたとしてもそれに耐えなければいけないのだと思いました。それが自由を選んだ時の孤独に関係するものではないかと納得しました。

クロム

高 行健の水墨画

高 行健は水墨画家としても活動しており、「霊山」の表紙の挿画には彼自身の作品が使われている。

表紙は作者の高行健自身が描いた墨絵で‘LE VOL DE NUIT’と題されている。日本語に訳すと「夜間飛行」、または「夜の飛翔」というところだろうか。だが墨絵なので画面が黒っぽくて夜という雰囲気はわかるが、それが風景を描いたのか他の何かを描いたのかもわからないし、風景だとしても、いつの時代のどこの風景を描いたかの説明が一切ない。表紙を見た読者は、想像力をフル稼働させて推測するしかない。

Rakutenブックスレビューより

「霊山」をイメージした書画

書家の大木ひさよ(水香)氏による書画。ノーベル賞受賞式に出席のためスウェーデンを訪問した高 行健氏(2000年)を間近に見る機会を得た大木氏は、『霊山』からインスピレーションを得て、一連の書画を制作したそうだ。

わたしには解読不能の草書体と漢詩の意味も教えていただいたのですが、それについてはまた別の機会に!

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