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ノーベル賞作家のさすらい、「霊山」に見る己との徹底対峙

メモ:ペルソナの好例

職業のペルソナ

この箇所は「霊山」の主旨ではないものの、ユング心理学のペルソナについてのわかりやすい例なので覚え書きとして書き抜いておく。

まず、赤い腕章をつけた職員が権威をふりかざしながら登場する。

私の乗った長距離バスはワゴン車に行く手をさえぎられ、赤い腕章をした男女が乗り込んできた。人間はこういう赤い腕章をつけると特殊な身分になり、威勢がよくなる。最初は犯人の捜索か逮捕かと思ったが、何のことはない。乗客の切符を確認にきた、道路管理部門の職員にすぎなかった。

「霊山」171ページ

語り手は、この赤い腕章をつけた男女がやってくる前にも、この長距離バス内で乗客の検札をして罰金を課する運転手の様子を観察していた。

こっそりバスを降りようとした農民は、持っていた麻袋を運転手が閉めたドアに挟まれ、無理やり十元を払わされた。それでようやく、麻袋は車外に出ることができた。農民の罵声をまるで意に介さず、運転手はアクセルを踏んで、バスを発車させた。農民は慌てて飛び退くしかなかった。山道に車が少ないせいか、ハンドルの前にすわると乗客よりえらくなった気がするのだろう。

「霊山」171ページ

赤い腕章をつけた男女の検査員は、運転手よりもさらに横暴で、運転手が規定どおりに角をちぎっていない乗客の切符を見つけて、運転手にバスからすぐに降りろと命令する。

運転手はおとなしくバスを降りた。検査員は反則切符を切り、運転手に罰金三百元を要求した。それは角をちぎっていない三元の切符の百倍という高額だった。上には上がある。これは自然界に限らず、人の世にも通用する法則なのだ。
(中略)
新たに請負制度が導入されて運転手の収入が高くなったのが面白くないのか、それとも赤い腕章の威厳を示したいのか、検査員の態度は非常で、まるで融通がきかなかった。

「霊山」171ページ

乗客に対して権威をふりかざす運転手がいて、その運転手に対して権威をふりかざす検査員がいるというわけだ。職業仮面をつけて威張りちらしたり冷淡になったりする最たる例としては、戦争下の兵士たちが、人間を相手にしているとは思えないほど冷酷非情になりうることも思い出す。彼らは日常では虫も殺せないような優しい男だったりするものだ。

笑顔のペルソナ

彼女は大笑いした。何がおかしいのかと尋ねると、楽しいのだと言った。しかし彼女は、自分が決して楽しくはなく、楽しいふりを装っているだけだと知っていた。彼女は、自分が楽しくないことを他人に悟られたくないのだった。

「霊山」186ページ

この箇所に心当たりがある人は、当サイト内の「美女と笑うセールスマン」も参考になるかもしれない。

死と解脱

自殺にも気力がいる

彼女はこうして、どこまでも歩いて行った。身も心も空っぽのまま。死が頭に浮かばなかったわけではない。もう終わりにしようと思うこともあった。しかし、自殺にも気力がいる。彼女はその気力さえ、ほとんど失っていた。自らの命を絶つのは、誰かのため、何かのためでなければならない。だがいまの彼女に、誰かのため、何かのためということはあり得なかった。自らの命を絶つ気力は残っていなかった。あらゆる屈辱と苦しみを経て、心がすっかり麻痺していた。

「霊山」276ページ

「誰かのため、何かのため」が生きる気力になることも多いと思いますが、みなさんは、どう思われますか?

最後の選択と解脱

以下は、長い引用になるが、語り手が解脱を得る瞬間の描写である。

死に対する最初の驚き、恐れ、あがき、焦りが収まったあと、続いてやって来たのは困惑だった。おまえは物寂しい原生林の中で道に迷い、立ち枯れて倒れるのを待っているだけの丸坊主の木々の間をうろついた。
(中略)
おまえは森と峡谷の境目にいることに気づいて、最後の選択を迫られた。背後の果てしない樹海に戻るか、それとも峡谷に下りるか?
(中略)
なぜかわからないが、薄暗い谷底に見える渓流がおまえを引きつけた。もう考えることはやめて、おまえは大股で駆け下りて行った。
 おまえはすぐに悟った。悩み多く、また温かい人の世に戻ることはもう不可能だ。あのはるかな記憶も、余計なものでしかない。おまえは無意識のうちに大声を出し、この忘却の河に向かって突進した。走りながら叫び、胸の奥から思い切り雄叫びをあげた。まるで野獣だった。おまえはもともと、何の気兼ねもなく産声を上げてこの世に誕生した。その後、様々な規則、訓告、礼儀、教養によって息を止められてきた。それがいままた、こうして思い切り叫ぶことの快感を取り戻したのだ。
(中略)
渓谷の急流も踊っていた。どちらが上流で、どちらが下流なのかもわからない。風に漂っているようで、雪の中に融けてしまった。おまえは重量を失い、肩の力が抜けて、いままで経験したことのない解脱を得た。多少の恐怖はあったが、何が怖いのかはわからなかった。

「霊山」451-452ページ

神との遭遇

最終章の冒頭には「悟り」という言葉が出てくる。

窓の外の雪の上で、私はとても小さなカエルを見つけた。片方の目をしばたき、片方の目を大きく開け、じっと私を見つけている。私はそれが神であると知っていた。
 神はこうして目の前に現れ、私が悟りを得たかどうかを確かめているのだ。

「霊山」542ページ

「著者が最終的にたどり着いた死と再生についての観念であり本著作の最終的到達点」と言われる最終章は第81章に当たるが、81という数字にも意味があり、たとえば「老子道徳経」も上篇(道経)と下篇(徳経)合わせて81章から構成されている。

81章は三島由紀夫の「豊饒の海(四)天人五衰」の最終章を思い起こさせ興味深かったです。(アマゾンレビューより)

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