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映画ゼイリブの殴り合いシーンに見る真実を知りたくない心理

真実を見ること、個人的な連想

「ゼイリブ」の喧嘩シーンを考察しながら、個人的にふたつのことを連想した。

コロナで見えてきたもの

コロナはわたしにとって、真実を見せてくれるサングラスだった。コロナを通じて今まで見えていなかった世の中のしくみが少しだけ見えてきたのだ。

ユング派分析家は社会事情に疎い、時代錯誤だなどと揶揄されることがあるが、わたしはその例にもれず、これまで浮世離れした狭い学問の世界で、社会のことをまったく知らずに生きてきた。コロナのおかげで、社会のことを知ることが意識化や個性化にどれほど重要かに気づきもした。

とはいえ、好んでサングラスをかけたままでいるわけでもない。たとえばマスコミのコロナ報道に振り回されないようにしようと、一生懸命声をあげている人がいて「日本人はそろそろ従順な羊をやめて自分の頭で考えよう」と言うのには大いに賛同するのだが、羊でいるラクさも捨てがたいのだ。知識人や専門家の頭がどれほどアテにならないかを思い知ってもなお、人の頭で考えてもらいたいと思ってしまうし、サングラスをかけて一瞬見てしまった”真実”は見なかったことにしたい自分もいる。

気功で見えるらしいもの

最近、気功の勉強を始めたのだが、気功で修行を積んだ人には見えないものが見えたりするらしい。生まれつき霊能力があってふつうの人に見えないものが見えるのではなく、見ようとして感覚を研ぎ澄ますことで”見えてくるもの”や感じられるものがあるそうだ。それだって気功というサングラスを通して見える、今まで見えていなかった真実だといえるだろう。

こんなことを言い出すと、また浮世離れの方向に行っていると思われるかもしれないが、わたしたちは、ありのままの物理的現実世界を同じように認識しているのではなく、わたしたちの脳があらゆる情報を個別の方法で処理して違った風に世界を認識している。そんなことを解説している脳科学者の苫米地英人は全日本気功師会名誉会長でもあるのだった。

これを書きながら子供の頃テレビによく出ていたオスマン・サンコンを思い出した。笑顔が魅力的だったサンコンさんは、ギニアから日本に来たとき視力が6.0で、畳のダニが肉眼で見えて落ち着かなかったとか、ビルの10階から路上の新聞が読めたとか言っていた。気功師にもダニが見えるのかもしれない。

ダニが肉眼で見たいかどうかはともかく、やはり”真実”が見えるサングラスへの興味はつきない。

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