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三島由紀夫「豊饒の海 (1) 春の雪」より」主人公の夢と夢日記を抜粋

三島由紀夫の遺作となった長編小説「豊饒の海」の第一巻「春の雪」 (1969)には、夢の話がよく出てきて、物語で重要な役割を担っている。夢分析の参考にもなるので、抜き書きした。(1,800文字)

自分もクライエントさんたちも夢日記をつけているので、夢日記と聞くと耳ダンボになります。

物語は知らなくても読めるが、夢に関心のない人にはつまらないと思うので、このページはスキップをお勧め。


55章から成る本書の5章から夢の話は出てきた。
シャム(タイ)からの留学生が、来日する航海の途中で故郷の寺の夢を見た話をしながら、次のようなことを述べている。

すべて神聖なものは、夢や思い出と同じ要素から成り立っており、それは、時間や空間によって我々から隔てられているものが、現前していることの奇跡である。

夢、時間、空間には、どれも手に触れることができないという共通点がある。

●手で触れることのできたものから一歩遠ざかると、それは神聖なものになり、奇跡になり、ありえないような美しいものになる。

●事物にはすべて神聖さが具(そな)わっているのに、われわれの指で触れられることによって汚濁される。

そして彼は言う。
「われわれ人間はふしぎな存在ですね。指で触れるかぎりのものを汚し、しかも自分のなかには、神聖なものになりうる素質を持っているんですから。」と。

それを受けて主人公の清顕(きよあき)が、
「よく夢を見られるのですか? 僕も夢日記をつけているんです」
と言う。

清顕は親友にさへ打ち明ける勇気のない、こんな夢への執着が、英語を通して、らくらくと相手の心へ届くのを見て、ますますジャオ・ビー(タイの留学生の名前)に親愛を感じた。

三島由紀夫「春の雪」p.47より

英語で外国人に向かって話すときに、日本語なら言えないことが言えるというのはわかります。

主人公の清顕にとって夢日記はこういうものである。

清顕はかうして誌(しる)す夢の日記に、自己流の解釈を付加へることがたえてなかつた。喜ばしい夢は喜ばしい夢なりに、不吉な夢は不吉な夢なりに、能ふかぎり詳(つぶ)さな記憶を喚び起して、ありのままに描いた。
 夢にさしたる意味も認めないでいて、夢そのものを重視する彼の考へ方には、自分の存在に對する一種の不安がひそんでいたのかもしれない。目ざめているときの彼の感情の定めなさに比べれば、夢のはうがはるかに確実で、感情のはうは「事実」であるかどうかの決め手がないのに、少なくとも夢は「事実」であつた。そして感情には形がないのに、夢には形もあれば色もあつた。

三島由紀夫「春の雪」p.83より

ときには、こんな夢を見ることもある。

清顕は夢を見た。夢のなかで、この夢は日記に誌すことはとてもできない、と考へている。それほどこみ入つて、それほど錯然としているのである。
 さまざまな人物があらはれる。・・・(夢の内容略)・・・
 夢の中で清顕は思つていた、あまり深く夢にかかづらうたために、夢が現実の領域にまで溢れ出し、夢の氾濫が起こつてしまつたのだと。

三島由紀夫「春の雪」p.145より

はたして、最終章の55章のクライマックスで、病で死にかけている清顕が、親友の本多に託した母親宛ての遺書にはこう書かれていた。

母上様。
本多に上げてほしいものがあります。私の机の中にある夢日記です。本多はそんなものが好きです。ほかの人が讀んでもつまりません故、ぜひ本多に上げて下さい。
清顕
(「春の雪」p.357)

先に引用したとおり、清顕は、自分が夢日記を書いていることを親友にも打ち明けていなかったが、遺書にこのように記したのだった。

本多は、これが遺書の全文であり、両親への挨拶すら書かれていないことを奇異に感じていたが、清顕にとって、夢日記がどれほど大切なものかがうかがい知れる。

物語の結びはこうであった。

一旦、つかのまの眠りに落ちたかのごとく見えた清顕は、急に目をみひらいて、本多の手を求めた。そしてその手を固く握りしめながら、かう言つた。
「今、夢を見ていた。又、会ふぜ。きっと会ふ。瀧の下で」
本多はきつと清顕の夢が我家の庭をさすらうて、広大な庭の一角の瀧を思ひ描いているにちがひないと考へた。
── 帰京して二日のちに、松枝清顕は二十歳で死んだ。
(第一巻終わり)

三島由紀夫「春の雪」p.367 – 368より

※引用元本は、ハードカバー( 昭和52年、48刷)。

※ほぼ元本どおりに抜き書きしたが、旧字を新字で代用したり、一部、端折った箇所もある。


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