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ユング派分析家が高僧に聞く「法力とはなにか」:摩訶不思議なこととシンクロニシティー

(2023/5/3 加筆修正 3,300文字。)
アクティブ・イマジネーション」で知られるユング派分析家の老松克博氏(1959 – )が”法力とは何か: 「今空海」という衝撃(法蔵館 2023年2月)”という本を出版したと教えてもらい、試し読みできる部分と読後レビュー欄を見ただけでもいろいろな気づきがあった。

【法力(ほうりき)とは】
仏法の威力。また、仏教修行によって得た不思議な力。

ユング心理学やユング派の分析について書かれている部分も参考になりますので、抜き書きしてみました。

ユング心理学の特徴や象徴について

ユング心理学の特徴の一つに、人間の変容や成長の原動力として心の深みにある宗教性を重視する姿勢がある。

老松克博「法力とは何か」

法力を探究しようとするなら、言葉の字面(じづら)をなぞるのでは足りず、語りえぬものの象徴的な現れを捉えなければならない。ユング心理学は、個人に由来するあらゆる表現のなかに象徴を探し、深層における不可視の文脈を見出すことに長けているので、今回の探究にはユング心理学が欠かせない。

いきなり「象徴」といってもわかりにくいと思うが、個人の心は個人的な内容だけでできてはいない。深層に降りていけばいくほど、心は非個人的、超個人的な色彩を帯びてくる。誰もが共通に持って生まれてくる、さまざまな心的要素や活動パターンがつまっているのである。それらは言語以前のものであり、象徴によるのでなければ表現することも経験することもできない。宗教性にまつわるあれこれはそのような水準に属している。

象徴として見出される深層の文脈は、その語りに秘められている普遍的な意味合いを指し示す。本書で扱う法力は、X阿闍梨という一個人をめぐっての現象であるにはちがいないが、ユング心理学による理解は、その超個人的で普遍的な本質を照らし出す。

老松克博「法力とは何か」

「法力とは何か」(老松克博)

この本は、京都の東本願寺前に書店を持つ仏教書専門の出版社から出版されていて、
1. ユング派の精神分析家である著者が、
2. 法力を持つ高僧にインタビューしたり関係者への取材などを通して、
3. 深層心理学の立場から法力の核心を照らし出そうとした研究
である。読んで感銘を受けたとわたしに教えてくださった方は、

私にとって衝撃的な内容で、共時性(シンクロニシティ)について思索するきっかけとなりました。

とのことで、以下のようなレビューと合わせ、ぜひ読んでみたくなる。

●(本の虫さん):「法力の研究を通して、ユング心理学のエッセンスが理解できるように思う。
老松先生の本は、どれも素晴らしい!」

●(koichiroさん):「ユング心理学の視点で法力を検証しています。法力に興味がある方にお勧めです。」

●(ドラえもんの妻さん):「思考力が見えなくしている世界のことをを知りたいならご一読を。」

アヤシイ現象への学問的アプローチ

ユングとオカルト

ユングは、オカルト的だと批判されながらも科学的に証明できない不思議な事実を否定しなかったが、老松氏も「法力」という、あやしいともいえる、研究者としては扱いにくいテーマを取り上げている。
その点について、密教に通じている読者から、「評価に値する」という意見もあれば、あやしいと思われないように武装しすぎているところが滑稽だという指摘もあった。
学者の著者が専門外の密教について語っていることで、突っ込まれている部分も合わせて紹介したい。

密教に詳しい人からのコメント

密教阿闍梨(高僧の資格を持つA氏)からのコメントの要約

・法力という魔訶不可思議なものを信じる人もいれば信じない人もいるが、実際の現象として法(佛法)の力による不思議な事はよく耳にする。そんな普通は馬鹿にして学者が取り上げない「現象」を取り上げて、ユング心理学という学問的なアプローチからの解明に真摯に取り組んでいる姿勢は評価に値する。

・ただし、密教の阿闍梨の立場から言わせてもらえば、優れた学者であっても密教については素人である老松氏だけに、法力に関するごく部分的な解説に終始しているように思えるし、老松氏の密教に関する解説には疑問点も残る。

「学問的アプローチにこだわり過ぎている」というB氏からのコメントの要約

・「理系研究者」を信望し、理系研究者である自分に自負がある様子で、論文でもないこの様な本の前書きに、延々と学問的アプローチをした所以を書き込んであり、そこで既にげんなりさせられる。

・わかりやすいエピソードを並べただけでは「理系研究者」の沽券にかかわると頑張りすぎて、まどろっこしさが増えている。

・自分のテリトリーに牽強付会に着地し、ユングに無理やりこじつけて法力を語り、法力を矮小化している。

意味はもちろん読み方もわからなくて調べましたが、牽強付会(けんきょうふかい)は、「自分の都合のよいように無理に理屈をこじつけること。」という意味です。

.

密教とユング心理学の両方の専門家でない限り「牽強付会」という批判は免れないと思います。
両方の世界に通じていない私の無責任な見解では、本書内の高僧がされている「法力」とは、ユングの言うアクティヴイマジネーションを利用した、西洋で言うところの「白魔術」に他ならないですが、それこそまさに牽強付会ですね。(笑)

密教とユング心理学の両方の専門家でない限り「牽強付会」という批判は免れないというFさんのご意見に賛同するし、本をまだ読んでいないわたしが想像するに、そもそも著者の老松氏は「牽強付会」を重々承知でこの本を上梓されたのではないだろうか。ユング心理学の枠組から見ると法力をこんな風に捉えることもできるというひとつの試案は、たとえばおとぎ話の深層心理学的解釈が、元のおとぎ話の価値を矮小化していないのと同じで、決して法力を矮小化するものではない。

A氏はそれを踏まえた上で、密教の解説部分では間違っているところもあるけどユング派の努力は認めようと評価しているのに対し、B氏の方は、学者ヅラした輩が、知ったかぶりして恐れ多くも密教を語るなんてけしからんとマウントを取ろうとしている感じもあり、この両者の対比が興味深い。

それ以外のB氏の指摘には、はっとさせられとても参考になったので引用させてもらいました。

シンクロニシティは「こじつけ」

また、「牽強付会」の方は(批判として受け止めることが必要な場合もあるが、)シンクロニシティーの大事な部分でもあると思う。

自分にとって意味ありげな偶然の一致を体験されたクライエントさんが、「こじつけかもしれませんが」と、そのシンクロニシティーを”矮小化”されることがよくあり、それを聞くたびにわたしは、そのシンクロニシティーのエピソードに興奮しながら「こじつけじゃないと思います、いえ、こじつけでいいんです!」と言っている。

ケンキョーフカイ(牽強付会)、万歳!

この言葉、難し過ぎて、なんどタイプしても覚えられる自信がないなぁ。

摩訶不思議なものをどう捉えるか

魔訶不可思議なものを信じる人もいれば信じない人もいる。
 ↓
摩訶不思議なものを信じる人の中には、以下の3種類の人がいる。

A. 信じない人にあやしまれたり馬鹿にされたくないので、自分が摩訶不思議なものを信じていることを人に知られないようにする人。

B. 信じない人にあやしまれたり馬鹿にされたくないので、自分が摩訶不思議なものを信じていることを人に知らせるときには、馬鹿にされないように徹底的に武装する人。(老松氏)

C. 信じない人にあやしまれたり馬鹿にされるかどうかは、気にも留めない人。

わたしには摩訶不思議といえるほどの自分の体験はないが、世の中に摩訶不思議な現象があることはある程度信じているので、願わくばCを目指したい。

Cカテゴリーの中も一様ではなく、たとえば特定の新興宗教やスピリチュアル団体の価値観に支配されて、それ以外がまるで見えなくなっている場合や、周りの現実に関心を向けるだけの心身の余裕がないためにCということもあります。
その点、上でコメントを引用したA氏の「信じる人もいれば信じない人もいるが、不思議なことは実際にある。」とサラリと言えるこの感じにあこがれます。

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