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こころの苦しみ、その意味と目的:不安と抑うつのユング心理学〜名画とともに〜

なぜあなたは苦しんでいるのか

エドワード・ムンク「別離」

エドワード・ムンク「別離」(1896)

非合理的なものと取り組むためには、苦しみの原因を探そうとするよりも、苦しみの目的を探そうとしなくてはならない。

またユングを引用する。

賢者なら自身にこう問いかけるだろう。「このような目に遭っているわたしは、一体、何者なのか」と。決定的なこの質問に答えるためには、自分自身のこころを真剣に見つめなければならない。

自分のこころを真剣に見つめて、自分に起きていることの本質にかかわる重要な問いかけをするとは、一体、どういうことなのだろうか。

このような目に遭っているわたしは、一体、何者なのか。

この問いかけは、被害者的で非生産的な「なんでわたしだけ (Why me)シンドローム 」とはまるで異なる。

うーん、この問いかけのイメージがよく掴めません。
別ページのコラム「魂の座:エヴァンゲリオン綾波レイの場合」も思い出しました。あれもうまくイメージを掴めなかったんですよね。

ユングは言う。

わたしとは、わたしに起きたことではない。自分でそうあろうと選んできたわたしが、わたしなのだ。

つまり、苦しんだにも関わらず、あるいは苦しんだからこそ、あなたは自分で選んで今のあなたになっているのだ。

たとえば刑務所に入ったり出たりを繰り返すような反社会的な大人Aがいたとして、Aの幼少時代がとても過酷で悲惨な経験に満ちているとします。この場合、「Aに起きたこと」の結果として大人のAを理解することができます。

しかし、AのきょうだいBは、Aと同じ親と過酷な幼少体験を持っているにも関わらず、社会に適応し、人から尊敬されるような大人になったとします。この場合、Bは、「Bに起きたこと」に流されることなく「自分で選んで」大人になったといえます。

自分のことが好きではない多くの人には、この言葉は耳が痛いかもしれない。

あなたがもし、わたしのことだ、聞きたくない言葉だと思うなら、それはあなたがただ自分のことを正確に理解していないからだ。損なわれないまま残っている自分の特別さや価値に、あなたも必ず気づくときが来る。

ゴッホ「耳に包帯をした自画像」

ゴッホ「耳に包帯をした自画像」(1989)

自分を受け入れる

自分のことを高く評価する、自分を愛する──そうしろと言われても、そう簡単にできるものではないという人は多い。

自分の中にある真に価値あるものを探すために、わたしたちは自己嫌悪の沼をずぶずぶと歩いていかねばならない。自分の真の価値は、無意識の中にあってなかなか見えないこともあれば、すぐ目の前にぶらさがっていることもある。

わたしの場合は、いくつかの忌々しい過去を受け入れなければいけなかった。過去を忘れさせてくれる薬はなかったし、過去に対する認知を修正してくれるプログラムもなかった。

自分に問いかけてみるように提案した質問を、わたしも自分に問わなければいけなかった。

このような目に遭っているわたしは、一体、何者なのか。

そして、答えを見つけるためにどんどん深く掘っていったのだった。

クライエントの中には、苦しくてたまらない、なぜ自分だけがという思いを持った状態から抜け出せない人もいる。そういう人たちは、腹をくくれず、自分のたましいのプロセスにとって、その苦しみが意味することは何だろうかと問いかけるステージに移行することができないまま、カウンセリングを中断してしまう。

自分にこの問いかけをすることはそれほど難しいことなので、この問いかけを受け入れることができた時点で、不安や抑うつには変化が起き始めると言ってもよい。

苦しみの中に意味を見出す

エドワード・ムンク「憂鬱」

ムンク「憂鬱」(1894)

苦しみの中に意味を見出すなどということは、多くの人にとって非常に難しい。もういちど例のユングの問いかけに戻る。

このような目に遭っているわたしは、一体、何者なのか。

なんども繰り返しているのは、心からこの問いかけに耳を傾けてほしいからだ。あなたの魂の奥深いところでエコーのように鳴り響かせて、この問いを聞いてほしい。

すでに述べたように、ユングのこの問いかけは自己憐憫に陥ることではない。自己憐憫をすることは正しい苦しみとはいえない。

誤解しないでほしい。プロセスの途中では自己憐憫が必要なこともある。過去にしかるべき同情や共感をもらえなかった人も多く、その場合には自分で自分のために自分を憐れむことが必要でもある。

しかし、自己憐憫に陥ってはいけない。鍵は意識化にある。苦しみに同一化することと、意識的に苦しむことには大きな違いがある。

うーん、意識的に苦しむってどういうことだろう。わかるような、わからないような・・・。

「わたしはうつだ」とか、「わたしは不安だ」というのは苦しみに同一化することで、「これはうつ状態だ」とか、「これは不安感だ」というのは意識的に苦しんでいるのである。このようにとらえ直しただけで、不安や抑うつ状態から自分自身が引き離されていることに気づくだろう。

この意識的な苦しみこそが、ユングが正しい苦しみと呼んだものである。

「意識化」は、ユング心理学でもユング派の分析やカウンセリングでも、最重要ワードのひとつです。

不安、抑うつ vs 正しい苦しみ

もしあなたが「不安や抑うつで苦しい」と言っているだけなら、それは「本当の苦しみに向き合おうとしていない」ことになる。

繰り返すが、誤解しないでほしい。あなたが苦しんでいることは疑いもない。ただ、その苦しみの原因は不安や抑うつそのものではない。本当の原因は、あなたが見ようとしないもっと別のもの、たとえば根底にある心の傷や、屈辱感や、拒絶された体験などだ。

少しややこしいが、あなたの不安や抑うつは、自分を癒すためのきっかけになるものだといえる。

体内の病原体を殺すために身体が発熱するのと同じように、あなたのこころは、こころの病原体を殺すために症状をつくり出す。

高熱は、細菌やウィルスが発しているのではなく、体が危険を感じて発生させる。
=高熱は身の危険を教えてくれる体の防御反応。

苦しみは、不安や抑うつによって発生しているのではなく、こころが危険を感じて発生させる。
=不安や抑うつによる苦しみは、こころの危険を教えてくれるこころの防御反応。

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