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運命と宿命

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運命(destiny)と宿命(fate)は、「元から定められている巡り合わせ」として、同意で使われるのが一般的ですが、ギリシア神話や深層心理学では、「宿命を変えることはできないけれど、運命は本人次第で変えることが可能」だという見方をすることがあります。

「変える」といっても、事実を変えることはできないので、じゃあ何を変えるか、何が変わるかというと、それは、わたしの理解では「出来事や事実に対する態度や捉え方を変えることによって引き起こされる、その次の展開」とでもいうものでしょうか。

たとえば、子どもは親を選ぶことができません。どんな親の下に生まれてこようが、それは、「こんな星の下に生まれてきた、自分の“宿命”」です。

あるいは、たまたま不幸な出来事に、遭遇してしまったとしたら、その“運の悪さ”もまた「宿命」といえます。

「親がああだったから、自分はこうなってしまった」とか、「あんな不幸な目に遭ったから、自分はこうなってしまった」と、誰かや何かに対する恨みつらみでいっぱいなだけでは、受け身のまま、自分の宿命に縛られることになります。そこにあるのは、あきらめだったり、絶望だったりでしょう。

運命が、宿命と同じではないというとき、この「運命」は、実現されることもあれば、されないこともあります。

実現されるかどうかは、その人次第。運命は、つまり、潜在的な、もって生まれたその人の可能性を、主体的に実現しようとするか、受け身のままで実現しようとしないかという、その選択を迫るものだといえます。

では、運命を実現させるために必要な選択とはなんでしょうか。

それは、犠牲者や殉教者としてではなく、主体的に自分で自分の人生の責任を負うのだという選択です。分析の目的のひとつは、その覚悟を決め、そのための自己吟味をすることなのかもしれません。選択の伴わない運命は、繰り返される宿命にすぎません。意識化しようとする困難な努力がなければ、人は傷に同一化したままでいることになるのです。

※このページの内容の一部は「ミドル・パッセージ」184ページに書かれているものです。

(冒頭の写真は、ギリシア悲劇「オイディプス王」より、オイディプスとスフィンクス。)

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