(5,600文字)
備忘録を兼ねて、本を読む時間のない方のために抜き書きします。
旧約聖書所収の「ヨブ記」は、神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている書物で、正しい人に悪い事が起きる、つまり何も悪い事をしていないのに苦しまねばならないという「義人の苦難」というテーマを扱った文献として知られている。旧約聖書の中で最も難解な書といわれ、さまざまな解釈がなされてきたこの書をユングが分析した「ヨブへの答え」(Answer to Job / Antwort auf Hiob, 1952)は、ユングの代表的著作のひとつ。
ユング「ヨブ記」の冒頭文
ヨブ記は、ある神のドラマが発展してゆく長い道程におかれた道標のひとつである。
旧約聖書の人びとがかれらの神をどのように感じたかは、聖書の証言から知られる。しかしここでわたしが問題にしたいのはそのことではなく、むしろキリスト教世界で教育を受け精神を形成してきた現代人が、ヨブ記にあらわになる神の闇の部分に対してどのような態度をとるか、あるいはこの闇の部分がかれにどのように作用するかである。冷静に比較考量し、どのディテールも公平に評価しながら解釈しようとは思っていない。主観的な反応を描こう。そうすれば、同じように感じる多数の人びとを代表して語る声となり、神の野蛮と無道をまざまざと見てしまったために生じる心の動揺が表現されるであろう。
ヨブ記はもっぱら、われわれの時代にとって特別な意義をもつ神体験のしかたの、ひとつの範例としてはたらく。この種の経験は内からも外からも人間に襲いかかり、合理的に解釈しなおしたり、比喩と解して衝撃を和らげようとしても無益である。ありとあらゆる知的操作や感情的な逃避によって自分の情動から逃れようとするよりも、それを認めその力に従うほうがよい。
情動に身を委ねることによって、その暴力行為のもつよからぬ性質をすべて模倣し、同じ過ちを犯すことになるとしても、それこそまさにこのようなできごとのめざすものなのである。つまりこのようなできごとが人間の内部に侵入し、その影響力に人間が敗れることが必要とされているのである。したがって人間は情動にとらえられていなくてはならない。そうでなければ影響力が及ばないからである。ただし自分の情動をよびさましたものを承知していなくてはならない、あるいはむしろそのものと知り合わねばならない。そうすることによって、暴力の盲目性と情動の盲目性をともに、認識に変えることになるからである。
こういうわけで、これからわたしは遠慮なく憚らずことばを情動に委ね、不正には不正をもって答えるつもりだ。そうすることによってわたしは、なぜまたなんのためにヨブが傷を負ったか、そしてこの事件からヤーウェ(ヨブ記の主役の旧約聖書におけるイスラエル民族の神、エホバ。)と人間にとってどういう結果が生じたかを、理解することを学ぶだろう。
── ユング「ヨブへの答え」の冒頭文
秋山さと子による解説
このような聖書の読み方がキリスト者において許されるものであるかどうか私は知らない。しかし、牧師の子どもとして生まれ、聖書の伝統的で教義的な解釈と、すべてを物理的事実として考えずにはおかない近代の合理精神の間で苦しんだユングにとって、これは彼の信仰のあり方を証明する唯一の残された道であり、また、心理的事実でもあった。そして、およそキリスト教の伝統とはかかわりのない一仏教徒であり、また、宗教学の学徒でもある私にとっては、聖書がこのような壮大なロマンに満ち、人間の精神と深くかかわるものであることをはじめて知るきっかけとなったものである。さらに、まさにその同じ理由から、本書はキリスト者と非キリスト者を問わず、世界的に迎えられ、賛否両論の大きな反響の渦を巻き起こした。
秋山さと子
ヨブ記の神はその全知全能の力によって、ほとんどあらゆる無道で野蛮な行為を繰り返す。敬虔で、倫理的掟をよく守る義人ヨブを、神はいじめ抜く。もし、神が人間に対して、気まぐれにもこのような態度をとるものであるとすれば、人類の不幸と悲惨は永遠にまぬかれない運命となろう。
秋山さと子
ユングはまさしくヨブその人のように、この神の非道が信じられず、また許すこともできない。神は模範的人間の代表であるようなヨブを疑い、ヨブの問いかけに対して、あたかも神と人とが対等の立場にあるように、これに答えて、自分の全能ぶりを誇るのである。
全能であるが故になにものも意識する必要のない神の無意識的な暴虐による悲惨な人類の運命は、ついにグノーシス主義の人々を反宇宙論に走らせ、この世を悪の支配下にあるものとする教えを広めさせる原因にもなった。その神の非道なあり方は、ヨブの上にあらゆる災厄となってあらわれる。神との賭けに勝つべくサタンはヨブの財産、家族、召使いを奪い、ヨブはサタンの下した病気によって日夜苦しむことになる。
全能でそれ自体で完成している神には反省がなく、したがって意識もない。神が天下に恐れるところなくふるまうのは彼が無意識だからである。神を擬人的に考えることが許されるならば、それは対象によってしか自己の存在感を得られない人格に符合するとユングはいう。
しかし、ユングはまた用心深く、この無意識そのものである神を、グノーシスにおけるデミウルゴスのように不完全であるとか、邪悪であるとかいうつもりはないと言明している。神はあらゆる特質において完全であり、徹底的に義であるが、また完全にその逆でもありうるのであって、そこに統一がないだけであると彼は考える。
ユングはグノーシス主義者だと誤解されることがありますが、そうではありませんでした。
このような一神教の強大な神の存在は、日本人にとってはわかり難く、縁のないものと思われる人もあるかもしれない。しかし、このような神は日本にはまったく存在しないというわけではない。
秋山さと子
キリスト教の原罪や、カントの根源悪に代わるものとして、日本人には先祖の犯した悪業による罪障感がある。日本の神も人間に嫉妬し、祟りを下す恐ろしい神である。
ヨブ記の問題は、キリスト者であるとないとを問わず、再びこの危機的な現代に提出されるべきものであろう。それはこの神が疑い深く嫉妬深い未開の神であるからではなく、聖なるものの本質をあらわしているからである。そこから、たとえばユングのように、聖書の中に神の変容のドラマを見る人もあろう。あるいは人間の、そして一個人の神秘のドラマをそこに発見する人もあろう。それはどのように感じられ、解釈されようとも、神の完全性の強大な力を持たない弱きもの人間に許されるべき自由ではないであろうか。
ユング「ヨブへの答え」より、日常生活で参考になる箇所抜粋
以下に列挙する箇所はどれも、現実の中で、親やきょうだい、上司や師など、自分より力を持ち、頼りにもなるけれど、ときにあるいはしばしばその力を不当にふりかざして暴君になる人たちのことを理解するのにも役立つと思います。
ヨブにとってヤーウェの悪はそれほどたしかであり、その善もまたたしかである。われわれに対して悪事をなす人間のうちに同時に助力者を期待することはできない。しかしヤーウェは人間ではない。かれはひとりで両者、迫害者でありかつ助力者である。しかもどちらの面も等しく現実である。ヤーウェは分裂しているのではなく、二律背反※なのである。この完全な内的矛盾こそかれのすさまじい活力、かれの全能と全知の不可欠の前提条件をなしている。
(ユング「ヨブへの答え」p.27)
※二律背反とは:二つの相反する命題や推論が、同じだけの合理性・妥当性をもっていること。 また、自己矛盾に陥ること。 ドイツ語の「アンチノミー Antinomie」の訳(英 antinomy)。
例:「私は常にうそを言う」という発言がうそだとすれば、「うそを言う」のが「うそ」だから、本当のことを言うことになる。
ヤーウェはその全能の力で嵐の空をやってきて、半ばふみにじられたうじ虫のような人間(ヨブ)にむかって非難のことばを轟かせる。
「そこでおろかな言葉を語り、神意を曇らせるものはだれか。」
ここでだれがどういう神意を曇らせるというのかと、訝しまずにはいられない。ヨブはなにひとつ曇らせていない。
したがってヤーウェの問に対する答はこうだ。みずからの神意を曇らせるおろかなものはヤーウェ自身である。かれはいわば逆ねじを喰わせ、自分がしたことについてヨブを責めるのである。かれについての意見を、とりわけかれ自身もっていない洞察をもつことを、人間には決して許さないというわけだ。灰のなかに座って腫物を掻きむしっているみじみな犠牲者に、71行の長さを費やして、かれは世界創造者の権能を告げ知らせる。このうえうんざりするほどこの権能に驚かしてもらう必要は、ヨブにはまったくない。ヤーウェももちろん、その全知によれば、このような状況でその威嚇の試みがいかに不適当であるかを十分知ることができただろう。ヨブが昔も今もヤーウェの全能を信じており、それを疑ったこともなければ、かれに対して不実であったこともないということさえ、容易にわかったことであろう。かれが初めからヨブの現状をまるで考慮していないところを見ると、かれには別の、かれにとってもっと重要な動機があると疑うのが当然だと思われてくる。つまりヨブは、神の内部に対立を招くたんに外的きっかけであるにすぎないのではないか。
ヨブはさいわい、ヤーウェの演説が続くあいだに、問題はとにかくかれの正しさとはなんのかかわりもないということに気づいた。正義の問題を論じることはもはや不可能であると悟ってしまった。ヤーウェがヨブの願いには毛頭興味を感じず、自分の問題に夢中であることがあまりにも見えすいていたからである。
ヤーウェはヨブに、自分の好まぬ懐疑者の顔を投影する。心をかき乱すような批判的なまなざしでじっと視詰めるのは、実はヤーウェ自身の顔である。かれはその顔がこわい。不安をかきたてるものに対してだけ、ひとは力や能力、勇気、不屈の意志などを声高に言いたてようとするものだ。それがヨブとなんのかかわりがあろう。ねずみをおどかすことが強者にとってしがいのあることだろうか。
(ユング「ヨブへの答え」p.41 – 47より抜粋)
無意識性は獣に、そして自然に通じる。すべての古代の神々と同じようにヤーウェにも動物のシンボルがある。この象徴は、人間の立場から見れば、ヤーウェの堪えがたいふるまいを説明するものである。つまりそれは、道徳的に評価するわけにはゆかない、ほとんど無意識的な存在の挙動である。すなわちヤーウェは現象であって、人間ではないのである。その証拠に、どんなことがあろうと、ヤーウェは絶対に心を悩まさない。
このような神に対しては、人間は恐れ慄いて服従し、賛美のことばを山と積み恭順を誇示して、絶対的支配者の心を宥めるよう間接的に試みることしかできない。現代の感じかたではここには信頼関係はありえないと思われる。このような無意識の自然的存在から道徳的満足を与えられることは期待すべくもない。
(ユング「ヨブへの答え」p.52 – 55より抜粋)
以下では、わたしたちが嫌でも生涯、成長しなければいけないことを突きつけられます。
黙示録以来われわれは、神は愛されるだけでなく、また恐れられねばならないということをふたたび知った。神はわれわれを善と悪とで満たす。そうでなければ恐れられることはないだろう。また神は人間になろうとするのだから、神の二律背反の調和は人間のうちで実現するにちがいない。これは人間にとってはあらたな責任を負うことになる。みずからの卑小性や無価値性を唱えて逃げをうつことはもはやできない。暗い神が人間の手に原子爆弾と化学兵器を押しつけ、黙示録の怒りの鉢を同時代人のうえにぶちまける力を与えたからである。ほとんど神のような能力が生じたのだから、もはや無分別で無意識でいることは許されない。
(ユング「ヨブへの答え」p.181 – 182より抜粋)
参考書籍リスト
●このコラムの引用元は、野村美紀子訳(1981)の「ヨブへの答え」だが、わたしが20年前に購入したこの本はすでに絶版になっており、現在では、1988年にみすず書房から出ている林道義訳「ヨブへの答え」(C.G.ユング)の方が入手しやすい。
林氏は秋山さと子氏を、「最も有名で影響力をもつユンギアン(ユング派)の一人でありながら、ユング理解が根本的なところで間違っている」と痛烈に批判しています(1995)ので、秋山氏の息のかかった野村版の邦訳はお気に召さなかったようです。
●なぜ私だけが苦しむのか: 現代のヨブ記 (岩波現代文庫) – H.S. クシュナー著, 斎藤 武訳(2008)
原題は、“When Bad Things Happen to Good People”(『善良な人に悪いことが起こるとき』)。 1981年に出版されて全米でベストセラーになり、14カ国で翻訳がなされたロングセラーだそうです。(ユング心理学からは離れます。)
これもユング心理学とは関係ないですが、神学者である著者(1935-)が、長年の集大成として86歳で出版された本で、日本語で読める初めての本格的なヨブ記注解のようなので、ご関心がある方は読んでみてください。
●「ヨブ記」は岩波文庫から出ていて電子版もある。
「旧約聖書 ヨブ記 (岩波文庫 青) 関根 正雄訳」
確かに宗教の本ですが、宗教的な押し付けはなく、どちらかというと文学的に心を癒してくれます。(アマゾンレビューより)