K=「空気」、Y=「読めない」で、「空気を読めない人」、状況にふさわしい言動を欠く人を表すこの言葉は、もとは女子高生言葉だったのが、2007年の参院選時、大敗したのにもかかわらず、すぐに辞めようとしなかった安倍内閣が「KY内閣」と評されたことでちまたの流行語となりました。
言語化されない「場の空気」を読み取って、それを壊さず、微調整しながら合わせていく能力は、人間関係の中で重要である一方、それが行き過ぎると、「主体性を喪失し周囲に迎合することとなり、集団同調圧力が強い日本社会ならではの問題」(稲増龍夫氏)にもなってしまいます。
たとえば日本人グループの中で発生する「暗黙のルール」を、外国人が無視して行動しても大目に見てもらえますが、もし、日本人が、外国人と同じ行動をしたら、ケーワイとして悪く言われたり、村八分にさえされるのです。
分析家の知人が「空気が読めない」のと、「空気が読めて、あえて従わない」ことは、表面的な態度としては同じに見えることがあっても、その実態は全く正反対のあり方である、さらに「空気を読まない」のもまた別のあり方だと言うのを聞いて、なるほどなぁと思いました。
会社の組織の中、親せきづきあい、子供の親同士など、自分が選択できない所属集団の中で、「読める空気に、あえて従わない」とか、「空気を読まない」と決めて行動することは、かなり勇気の要ることです。
「空気がまったく読めてないのに、本人は読んだつもりで、その場に合わないとんちんかんなことを得意満面でやってしまう」という困ったケースもあります。
※1977年に評論家の山本七平氏が著した「空気」の研究は、日本人論として、まさしくこの意味での「空気」を分析した書。
※参考コトバンク。冒頭のイメージ写真は、http://vanillafudge.jp/event/0909_senryu10.htmlより。
※この記事は、「ストックホルム日本人会会報2016年春号」に掲載したものを改変。