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ノーベル賞作家のさすらい、「霊山」に見る己との徹底対峙

(追加更新日:2021/5/24)全5ページの読書メモ+アルファの 9,300文字。

ガンの宣告を受けた男が中国南部の山野をさまよい歩く姿を描いた長編小説「霊山」を読んだ。中国人作家初のノーベル賞受賞者である高 行健(こう こうけん、ガオ・シンジェン)の代表作である本作品は、重い内容が作家自身の実話とも重なるもので相当に読み応えがある。

ホメロスの叙事詩にちなんで「東洋のオデュッセイア」と称賛されてもいる本書を、辻仁成は「わけのわからない怪物」と言って高く評価したそうだ。(「スミスの本棚」2012)

この記事では、印象に残った箇所をせっせと抜き書きしながら、関連するユング心理学用語や心理学の話を添えた。

飯塚 容(いいづかゆとり)による日本語訳は素晴らしいが、作品の独特な構成や難解な内容が万人向けではないのと、テーマだけでなく物理的にも重くて分厚いハードカバー本(キンドル版も文庫版もない。)なので、気軽な読書にはオススメできない。本を手にとっていただかなくてもこの記事にざっと目を通していただければ、本のイメージがつかめるかと思う。

私も熟読したわけではなく、休日に1日で読める分だけ読もうと決めて飛ばし読みしました。

この記事を読むだけでも長すぎるという方は、目次から適当につまみぐいしてください! ページごとに内容がバラバラで、つながっていません。

作品の背景となる実話

高 行健(作家)は、北京在住時代にタバコの吸いすぎのため医者から肺がんで余命いくばくもないと診断される。失意のどん底に突き落とされた高は、北京人民芸術劇医院の劇作家としての仕事を捨て、家族と離れ、ザックひとつだけ背負って旅に出る。残された数ヶ月の間に、華麗で幻想的な自国の山河を目の当たりにしたいと思ったのだ。そして中国西南部の人跡まれな奥地を探検して周り、数ヶ月後、旅を終えて北京に戻ってみると、癌と診断された肺の黒い影が奇跡的にすっかり消えていた。

最初の診断が、医者の誤診だったのではないかと言う説もあります。

不思議なことに彼は失いかけた命をとりとめ、不思議なことに文学を創造する力が再び沸き起こった。「霊山」はこうして生まれたのである。

「霊山」原著の序文より馬森(マーセン)

「霊山」より抜粋

魂の遍歴の始まり

ミッドライフ・クライシスを経験した人たちは、新しい生き方を模索していく過程で、好むと好まざるに関わらず、しばしば今まで苦労して積み上げてきたものをいったん捨て去らなければいけないことがある。「霊山」の主人公の”魂の遍歴”ともいえる旅が始まるときの描写もその状況を表している。

私は、いま自分が歩んでいるのが正道なのか否かを知らない。いずれにせよ、あの賑やかな文壇を離れ、いつも煙が立ち込めていた自分の部屋から抜け出してきたのだ。あの部屋にうずたかく積まれた本に圧倒され、私は息もつけなかった。それらの本は、それぞれ様々な真実を語っていた。歴史の真実から、人間の真実まで。だが、この多くの真実がどんな役に立つのかが、私にはわからなかった。私はこれらの真実に絡め取られ、その網の中でもがいていた。まるで蜘蛛の巣に引っかかった虫けらのようだった。

「霊山」22ページより

自分自身に向き合う

語り手が自我について述べる第26章では、自分は一体何者なのかについて徹底的に問われている。
(※ここで使われている「自我」の意味合いは、ユング心理学の「自我」とは異なる。)

自我という不思議なものを観察したことがあるだろうか? 見れば見るほどそれらしくなくなり、見ればみるほど違ってくる。ちょうど、草地に寝転がって、空に浮かぶ雲を眺めるのに似ている。
(中略)
ひたすら自分を凝視していると、しだいに自我が見なれた姿から離れ、自分でも驚くような多くの表情が浮かぶことに気づくはずだ。だから私は、自分のプロフィールを述べるように言われると、戸惑いを感じてしまう。あれほど多種多様な表情の中のいったいどれが自分なのか。

「霊山」163ページより

「見ているうちにいろんなものに見えてくる」例として雲の次にあげられていたのは、壁のしみだった。語り手は、壁のしみが受け入れがたい化け物に見えたとしても、「それはまぎれもなく自我から生まれたものだから、受け入れるしかないのだ。」と言うのだが、この”受け入れがたい化け物”は、ユング心理学の「」にも相当する。

■脱線 心理学豆知識■

雲は動いてどんどん形を変えますが、壁のしみの形は変わりません。精神医学の領域では、紙の上に落とされたインクのしみが何に見えるかによって、その人の性格や病態水準を判定するロールシャッハ・テストという有名なテストがあります。

ロールシャッハテストの図版

語り手が、定期券に貼られた自分の顔写真を見て独白するシーンも印象深い。

最初はにこやかに微笑んでいるように見えたが、だんだん目元に浮かんだ笑いが嘲笑に思えてきた。得意げで、冷ややかで、自己愛と自己陶酔がうかがえる。自分は他人より偉いと思っているのだ。しかし、憂いも感じられた。孤独さがにじみ出ている。瞬間的な不安もあった。決して勝者ではなく、苦しみを抱えている。だから当然、無邪気で幸せそうな普通の笑顔を浮かべることができない。むしろ、そういう幸福を疑っている。そこでこういう少し恐ろしい、虚ろな顔になってしまったのだ。私はもう、その写真を見続けることができなくなった。

「霊山」166ページより

続く箇所では、わたしたちが長時間の分析を受けながらやっと渋々認めるような事実を、自力で徹底的に追求しているのだが、これは「投影の引き戻し」ともいえる。

他人を観察してみてわかったのは、大嫌いな自分がその中にひそんでいて、あらゆる顔に影響を与えているということだ。これは実際、非常にまずいことだった。私は他人を注視しているとき、同時に私自身を注視していた。
(中略)
私は他人を観察するとき、いつも他人を自己省察のための鏡にした。こうした観察はつねに、そのときの私の心境に左右される。私の他人についての理解は、浅薄で独断的なものだった。

「霊山」166ページより

そして核心に触れられる。

問題は心の奥の自我の覚醒にある。それは私を苦しめ、不安にさせる怪物だ。人間の自己愛、自虐、うぬぼれ、傲慢、自己満足と憂い、嫉妬と憎しみは、いずれもそこに由来する。自我とは、人類の不幸の根源なのだ。それでは、この不幸を解決するために覚醒した自我を殺さなければならないのか?
 そこで、仏陀は須菩提(しゅぼだい:仏陀の十大弟子の一人)にこう告げた。万相がみな虚妄であれば、無相もまた虚妄である。

「霊山」167ページ

なにやら難しい、でも気になる仏陀のことばが出てきましたので調べてみました。

「世間における一切のものは虚妄である。」と釈尊(ブッダ)は言ったが、その一方で彼はまた、自分にはこの世は浄土と映っているが、弟子にはそう見えないだろうとも言った。(「我がこの土は浄けれども汝は見ざるなり」『維摩経』)

つまり、われわれが見ているものはことごとく虚妄であるけれども、覚者の目(それを仏眼、あるいは慧眼という)には同じこの世が真実と映っている。この世が虚妄となるか、真実となるかは認識するわれわれの見る姿勢にかかっており、見る私が「世俗の我」であるか「真実の我」であるかによって、世界もまた虚妄ともなれば、真実ともなる。

ところが、ここに重大な問題があり、この世が虚妄であると知るのは覚者に限られるという。言い換えれば、「真実の我」(親鸞の言う「まことのひと」であり、臨済の「真人」にあたる)を知るのでない限り、われわれはこの世が虚妄の世界であると気付くことさえない。
(参考サイトはこちら

要するに、悟りの境地に到達していない我々は、たとえそれが”不幸の根源”だとしても”自我”に向き合うしかないと理解すればいいのかなと思いました。

 

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