ラビリンス(labyrinth,迷宮)は、わたしたちの生を象徴する「道」であると同時に、全体性(wholeness)のシンボルととらえることができます。
ぐるぐる、うねうねしながらも、中心にある目的地に向かって通路を進んでいくことは、「わたしたち自身の中心」へ向かうこころの旅のイメージと重なります。
冒頭の写真は、中世のラビリンスの中でも有名な、フランスのシャルトル大聖堂のもの。このラビリンスを歩くことは、聖地へ向かう殉教の旅を意味する、と言われています。
図式化したイメージです。
図のいちばん下、Aの部分に入口があります。
おもしろいのは、AからBをめざして進む過程で、さんざん、ぐるぐるうねうねしたあとに、Aのすぐ右隣の地点にやってくることです。
実は、ここまでくれば、めざすBまではあとわずかなのですが、見える景色は、スタート地点のAとほぼ同じなので、あれ?ここって、スタート地点では?と感じてしまいます。
この感覚は、分析が進展して行く段階でも生じることがあります。「さんざん、ぐるぐるして、曲がりなりにも進んでいると信じていたのに、こんなに時間とお金をかけたのに、何も変わっていないのでは!?」と感じてしまうのです。
迷宮(ラビリンス)は、迷路(maze)ではありません。
迷宮は、迷路と違って、秩序だっています。
- 迷宮の通路は交差しない。
- 迷宮は、一本道であり、道の選択肢はない。
- 迷宮はの通路は、振り子状に方向転換をする。
- 迷宮内には余さず通路が通され、迷宮を抜けようとすればその内部空間をすべて通ることになる。
- 中心のそばを繰り返し通る。
- 中心から脱出する際、行きと同じ道を再び通らなければならない。
ある程度しっかり分析を受けた経験のある人は、迷宮の、このひとつひとつの要素が、おそらく、分析にもあてはまるのだろうということを直感的に感じるはずです。
迷路は、パズルのように「解く」ものです。ゆがんでいたり、ねじれていたり、行き止まりもあります。正しい道を見つけるために、頭を使いながら、論理的、分析的にとりくむ必要があります。それは、左脳がする仕事なのです。
迷宮は、一本道ですから、ごちゃごちゃ考える必要はありません。ただ、粛々と前に進み、中心までたどりついたら、入ってきたときと同じ道を通って出ていくだけです。そこで必要なのは、右脳の働きだけです。
迷路では、ずっと能動的な選択を迫られ続けますが、迷宮では、むしろ受動的な態度が必要で、選択は一度だけでいいのです。それは、この道を歩き始めるか否かという選択です。
※シャルトル大聖堂(ユネスコ世界遺産)は、パリからおよそ南西80kmほど離れた都市シャルトルに位置し、フランス国内において最も美しいゴシック建築のひとつと言われています。いつかぜひ行ってみたいです!
【参考ページ(英語)】
Labyrinthos
The Labyrinth: Walking Your Spiritual Journey
The Mysteries of Chartres Cathedral