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適職と天職、東山魁夷

東山魁夷「白樺の丘」

フロイトは、「仕事は健全さにとって不可欠の要素である」と言っています。
ここでいう「仕事」は、生活に必要なお金を得るためにする活動を指しているのではなく、わたしたちが、自分自身の生命エネルギーを使って、それをやるように、Callされている天職、つまり、天から与えられたとでもいうべき仕事を意味しています。

適職は、自分の資質によって選ぶことができるもので、たとえば職業適性検査によっても決まります。しかし、天職(Vocation)は、その語源、ラテン語のVocatusが呼びかけを意味するように、わたしたちが天職を選ぶというよりも、天職の方がわたしたちを選ぶとさえいえるものなので、たんに好きなことをすればよいというものではありません。天職が、お金を稼ぐこととは無関係のことも多いのはもちろん、意識的には、やりたくないことだってあるのです。

ナザレのイエスの父親は、教会の十字架を作る大工でしたが、イエスは父親のあとを継ぎたくありませんでした。マグダラのマリアと結婚して、子供をもち、平凡な家庭生活を送るのが彼の理想だったのです。しかし、内なる声、Vocatusは、まったく違ったところに彼を呼びかけます。孤独を味わい、父親にも見放された彼にとっての最後の誘惑は、そのCallを無視して、ごくふつうの人間になることでした。しかしイエスは、自分のVocatusに応じないことは、自分自身を裏切ることになってしまうと気づいて、キリストになります。(カザンザキス「キリスト最後の誘惑」より)

天職へ至る道は、自己実現への道と同様で、決してたやすくないかもしれませんが、自分の内なる声に耳をかたむけることができれば、わたしたちは、そこに導かれるはずなのです。
日本画家の東山魁夷は、著書「風景との対話」の中で、こう述べています。

人生の旅の中には、いくつかの岐路がある。中学校を卒業する時に画家になる決心をしたこと、戦後、風景画家としての道を歩くようになったのもひとつの岐路である。その両者とも私自身の意志よりも、もっと大きな他力によって動かされていると考えないではいられない。私は生きているというよりも生かされているのであり、日本画家にされ、風景画家にされたとも云える。その力を何と呼ぶべきか、私にはわからないが-

  • 冒頭の絵は、東山魁夷「白樺の丘」。スウェーデンの白樺林が描かれている。フィンランドにもノルウェーにも白樺が多いのに、なぜか、スウェーデンの白樺林が強く印象づけられていると東山は言っている。

※付記
この記事は、ストックホルム日本人会、会報2013年秋号に掲載されたものです。

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