版画家で画家の棟方志功が、ゴッホのひまわりの小さな口絵に「むやみやたらに驚き、打ちのめされ、喜び、騒ぎ叫んだ」エピソードを中心に、棟方志功について自分にぴんときたことだけかいつまんでまとめた。(4,700文字)
わたしが棟方志功に関心を持ったいきさつは、こちらのページをご覧ください。
これが棟方志功(むなかたしこう)の板画作品。”縄文的とか、青森の祭ねぶたのエネルギーなどと評される奔放な作風”で知られる。
Contents
棟方志功(むなかた しこう、1903/9/5 – 1975/9/13)
棟方志功は画家であり版画家である。画壇の巨匠梅原龍三郎をして、「日本美術界の一驚異」と言わしめた人物である。
引用元
あるものは彼を奇人変人と揶揄した。ものごとに熱中すると周りがいっさい見えなくなる。制作スタイルも異様であった。一旦、想像力が刺激されれば、画想が脳裏に膨らむ。そうなるともう止まらない。描きたいという意欲が内側から溢れかえり、目の色が変わってしまう。そして、部屋一面に埋め尽くされた画仙紙の上に、躍り回り跳び回りながら一気に描いていく。その速さと勢いは、見ている者を圧倒し、神がかりと思わせた。志功自身、次のように語っている。「いま仕事をしているのは、われではない。仏様だ。われは仏様に動かされて動いているだけだ」と。
生い立ちと略歴
棟方志功は、青森の刀鍛冶職人の家に十五人きょうだい(九男六女)の三男(第六子)として生まれた。小学校を卒業後、給仕などして働いたあと、21歳で画家を志して上京し、独学で絵を学んだ。兄から経済的支援を受け、自分も靴の修理や納豆売りをしながら上京5年目で、現在の日展にあたる帝展に油彩画が入選。33歳のとき、民藝運動の柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司らに版画作品が注目される。世界のムナカタとして、国際的な名声を得たのは49歳以降。
東京都の自宅で72歳で死去、生前の希望により青森市にある霊園内に埋葬されたが、墓石はゴッホの墓と同じ形に造られた。
棟方志功、ゴッホの絵を見て「いいなァ、いいなァ」
棟方志功の「わだば(わたしは)ゴッホになる」というセリフは、キャッチコピーとしてよく使われているが、本人の随筆の中でその詳細が書かれており、その描写が読み手の気分まで高揚させてくれるので紹介したい。(太字はとーなんによる。)
「棟方志功 わだばゴッホになる」には、次のエピソードが掲載されている。
引用元
…弘前に小野忠明という洋画家がいて…わたくしはある日、意を決して小野さんのお宅を訪ねました。話を伺ううちに、わたくしは「ワ(私)だば、バン・ゴッホのようになりたい」と言いました。すると、小野さんは、「君は、ゴッホを知ってるッ?」と言います。その頃わたくしは、何か判らないが、ゴッホというものを口にしていました。みんなから「シコーはいつもゴッホ、ゴッホと言っているが、風邪でも引いたかな」とからかわれたものでした。
小野さんは新刊の雑誌を一つ持ってきました。『白樺』でした。
口絵に色刷りでバン・ゴッホのヒマワリの絵がのっていました。赤の線の入った黄色でギラギラと光るようなヒマワリが六輪、バックは目のさめるようなエメラルドです。
一目見てわたくしは、ガク然としました。何ということだ、絵とは何とすばらしいものだ、これがゴッホか、ゴッホというものか! わたくしは、無暗矢鱈に驚き、打ちのめされ、喜び、騒ぎ叫びました。ゴッホをほんとうの画家だと信じました。今にすれば刷りも粗末で小さな口絵でした。しかしわたくしには、ゴッホが今描いたばかりのベトベトの新作と同じでした。「いいなァ、いいなァ」という言葉しか出ません。わたくしは、ただ「いいなァ」を連発して畳をばん、ばんと力一杯叩き続けました。
「僕も好きだが、君がそれほど感心したのなら君にあげよう。ゴッホは、愛の画家だ」。小野忠明氏は力強く最後の言葉を言ってくれました。
それからは、何を見てもゴッホの絵のように見えました。
…そうして小野氏は、大切にしていましたゴッホの『ひまわり』の原色版を、わたしにくれました。―この原色版を、カミサマ―ゴッホの面影として大切にしていたのですが、残念千万にも、戦災で無くしたのは、惜しく思っています。
『ようし、日本のゴッホになる』『ヨーシ、ゴッホになる』―そのころのわたくしは、油画ということとゴッホということを、いっしょくたに考えていたようです。
わたくしは、何としてもゴッホになりたいと思いました。…わたくしは描きに描きました。…何もかもわからず、やたら滅法に描いたのでした。ゴッホのような絵を―。そして青森では、『ゴッホのムナカタ』といわれるようになっていました。」
棟方志功を版画制作に向かわせた作品
のちに版画の巨匠と呼ばれるようになった棟方志功は、22歳のとき川上澄生(かわかみすみお)の版画「初夏の風」を観て感動したのがきっかけで版画制作に向かった。これがその作品。
中央の女性を取り巻いているのは、風であると同時に筋肉もたくましい男たちであるという、この版画の解説も興味深いです。
その他もろもろ
棟方志功と花
棟方が6年生の時、学校裏に不時着した飛行機を見に走っていると田んぼの小川で転び、目の前に沢瀉(おもだか)という白い花を見つけます。その美しさに感激し「この美しさを表現できる人になりたい」と決意しました。
参考
棟方志功と木
豪雪地帯で生まれ育った棟方志功は、囲炉裏の煤で眼を病み、幼少期から極度の弱視だったが、57歳で左目は失明状態になる。この頃から郷土、青森を題材にしたテーマに取り組んだ。版木に触れるほど顔を近づけて一心不乱に版木に向かう姿が人々の記憶に残っている。版木を無駄に使わないことがポリシーで、中には一枚の板の両面に彫られている作品もある。
棟方は、1942年(39歳)から自らの木版画を「板画(ばんが)」と呼ぶようになりました。「板画」という言葉には、板の性質を大事に扱い木の魂を生み出さなければならないという想いがこめられています。棟方にとって作品を作り出すことは「木に彫らせてもらう」作業だったのです。
参考
ねぶた祭りとクラシック音楽が大好きだった棟方志功
棟方は子供の頃から大のねぶた愛好家であり、開催時期にはほぼ毎年帰省して祭りに参加した。棟方はねぶたの色彩こそ純粋な自分の色彩であるとして、作品の題材にも採り上げた。欣喜雀躍する自身の姿を描き込んだ作品もあり、ねぶた祭りに跳人(はねと)として参加している映像や写真も現存する。
ウィキペディアより
棟方はベートーヴェンの音楽、なかでも交響曲第九番を好み、蓄音機が手に入る前からレコードを買い揃えた。…棟方は最晩年に自分が死んだときは白い花一輪を供えてベートーヴェンの『第九』を聴かせて欲しいという言葉を遺している。
ウィキペディアより
棟方志功の座右の銘
棟方志功は、武者小路実篤の言葉である「この道より 我を生かす道なし この道を歩く」を座右の銘にしていた。
「この道」がわからないから困っているという人も多いと思いますが、こんな考え方もあります。
問題は「我を生かすこの道」をどうやって見つけるかだ。
このページの内容をとーなんが理解した形で一部改変
人生の多くの時間、とりわけ青春時代に、この問題の答えを求めて人は彷徨する。
「所望して何かを得ることは最上である。所望して失うことは、その次によい」とウィリアム・サッカレー(19世紀のイギリスの小説家)がいうように、自分だけに天が与えた道とやらも、欲しいと思って所望して得られるならいうことなしだ。
しかし、たとえ道が見つからずとも悔やむ必要はない。
「この道」とは別に、万人に平等に与えられた道があるからだ。
それは「道を求めて歩きつづける」という道。
だから私たちは、歩きはじめたその日から、胸を張って生きていけばよいのだ。
劇団ひとりが演じた棟方志功
「我はゴッホになる! 〜愛を彫った男・棟方志功とその妻〜」は、フジテレビ系列の「土曜プレミアム」で2008年10月に放映された2時間のテレビドラマで、棟方志功役は劇団ひとりが演じた。
【あらすじ】
引用元
昭和2年(1927年)10月。東京は本郷のボロ長屋で、柱に貼った一枚の札に手を合わせる青年がいた。芸術家のゴッホをこよなく愛した棟方志功(劇団ひとり)だ。札にはゴッホの生年月日が書かれており、棟方は帝展(現在の日展)に提出した作品の入選、いや特選を祈願していたのだ。特選を疑わず、ふるさと青森のねぶたを踊り、上野の森の発表会場ではベートーベン交響曲第9番「歓喜(よろこび)の歌」を口ずさむ志功だが…。
ここまで見て、棟方志功の無邪気で快活な人柄を想像していたが、棟方志功の初孫で、現在、棟方志功研究家として活動している石井頼子によれば、棟方が公の場で見せる天衣無縫で豪放磊落(ごうほうかいらく)な姿は対外的なもので、自宅での棟方は物静かな読書家で大変な努力家だったとのこと。
メイキング・オブ・ムナカタ 2023
2023年10月現在、東京国立近代美術館で棟方志功展「メイキング・オブ・ムナカタ」が開催中。( 2023年12月3日まで)
「⽣誕120年 棟⽅志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」
辛酸なめこ氏のこちらのページで、展示会内容が楽しくまとめられています。
東京国立近代美術館といえば、棟方志功の代表作の「二菩薩釈迦十大弟子」も所蔵されているのでは?
実物は見た事がないけど、TV画像だけでも迫力満点でした。
菩薩様は、棟方さんに特徴的な包容力に満ちたふくよかさで、お弟子さんたちはそれぞれの卓越した能力を満点に表現できていて、僕の知っている棟方作品の中で一押しです。
こんな絵に囲まれて、河井寛次郎の器で酒と肴味わえたら、、、いつ死んでもええって感じです。
つぶやき
降水量が全国最小で瀬戸内の温暖な気候で知られる“晴れの国おかやま”で生まれ育ったので、東北地方出身と聞くと、太宰治、宮沢賢治の名前が思い浮かぶと同時に、コンプレックスのようなものが刺激される。それは自然の厳しさを知っている人のたくましさや底力に対するあこがれのようなものでもある。
棟方志功についていろいろ調べながら、青森の豪雪地帯出身者ということがずっと頭を離れず、棟方作品にみなぎる力強さをついその背景と結びつけてしまった。
ちなみにスウェーデンにも”豪雪地帯”があるし、今、住んでいるストックホルムだって雪はあまり降らないながら冬は相当寒いが、自然の厳しさを感じることはない。どこに行っても人工的に整備されたぬくぬくした環境で、冬景色や雪景色を眺めてきれいだなと思うぐらいで、倉敷の木造住宅の冬の方がよっぽど寒い。
棟方志功が、強度の弱視に加えて片目は失明というハンディキャップを抱えていたと知り、老眼ごときで騒いでいる自分を反省しました。
当サイト内関連コラム
●京都の山口邸と倉敷の大原邸、棟方志功との深いつながりと人間模様 (2022.10.22)
参考
・東京文化財研究所アーカイブデータベース 棟方志巧
・棟方志功記念館のサイト
・なんという大迫力!わだばゴッホになる 世界の棟方志巧展、あべのハルカス美術館で開催!(2016/11 – 2017/1)
・棟方志巧とは?仏教や詩に魅せられた版画家が生み出した木版画の世界 (2021)
棟方志功記念館は2024年3月31日で閉館となり、所蔵作品は青森県立美術館に移管される。
※冒頭のアイキャッチ画像の出典はこちら。