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京都の山口邸と倉敷の大原邸、棟方志功との深いつながりと人間模様

版画家の棟方志功と親友だった山口繁太郎の話を中心に、棟方の山口家と大原家との関係についてまとめた。(5,100文字)

2023年夏、日本に一時帰国した折、京都の山口邸と倉敷の大原邸をそれぞれ別々に、まったく偶然のなりゆきで訪問する機会があったのだが、どちらも棟方志功と深いつながりのある邸宅だということをあとで知り、さらに、ちょうどこのふたつの邸宅がテーマとなっている棟方志功の特別展が、ちょうどその時期に開催されていたので重ねて驚いた。思えば故郷倉敷では、棟方志功の作品はあちこちでよく目にするので見慣れているものの、今まで関心を持ったことはなかった。こんなシンクロニシティ、偶然の一致は見逃せないと思って調べているうちに、棟方志功という芸術家にも、棟方を取り巻く人のつながりにもどんどん興味が湧いてまた長文になってしまった。

※棟方志功については、別途こちらのページに書いた。

棟方志功の支援者たち

多くの芸術家がそうであるように、棟方志功も生涯たくさんの友人や支援者に恵まれ、彼らとの交流を通して身に付けた教養や、経済的支援などの支えがあって、多彩な芸術活動を展開することができたという。

棟方が恩人の名を彫り込んだ作品には、柳宗悦(民藝運動の主唱者)の名とともに、このコラムで取り上げている大原家の大原孫三郎山口繁太郎の名がある。

棟方志功と山口繁太郎

山口繁太郎は棟方と同郷の津軽出身

山口繁太郎(写真提供 山口ケイコ)

山口繁太郎(しげたろう, 1909 – 1966):ジャーナリスト・編集者・出版人。
1909(明治42)年、南津軽郡金田村新屋敷(現平川市)で、小作人の三男坊として誕生。生後すぐ父を亡くし、母と兄に育てられた。戦前から労農運動に参加、青森から東京、京都大学消費組合へと移り、そこで教授たちの論文出版を手がけたことが山口書店の創業につながった。戦後「夕刊日出新聞」、「京都日出新聞」を発行。

青森県立図書館資料より

棟方志功との出会いと親交

繁太郎と棟方の出会いは、1939年(30歳)、青森市での棟方の油絵の個展の時だった。同じ津軽出身、どちらも貧しい家の生まれで小学校しか出ていない生い立ちで、自力でたくましく生きてきたふたりは意気投合し、芸術家と支援者の関係を越えた無二の親友と呼べるような仲になる。

戦後、繁太郎は、棟方のために戦前の建物を改修し、棟方は、京都に来ては、毎回そこに1ヶ月ほど滞在して絵や詩を描いて過ごした。とくに繁太郎が病に倒れてからは、棟方は繁太郎を励まそうと懸命に室内の建具に直接、肉筆彩色画を描き続けた。

その建物は、現在は山口書店の社屋となっている。

京都 山口書店(写真提供 山口ケイコ)

山口書店の社屋は、「京都の財産として残したい、京都を彩る建物や庭園」リストに選出されている。

青森の椿館に一緒に宿泊

繁太郎と棟方は、互いの故郷青森で椿館に一緒に宿泊したり、棟方は繁太郎の生家にも立ち寄っていた。

青森の浅虫温泉の宿、椿館には、「棟方志功ゆかりの宿」という看板が掲げられている。棟方が38歳(1941年)から晩年の71歳まで家族で利用していた定宿で、棟方が描いた作品も展示されている。

棟方志功の処女随筆集

繁太郎が1942年(昭和17年)に編集、刊行した棟方の随筆集『板散華』は、棟方が「板画宣言」をしたことで有名な処女随筆集で、棟方の作品と思想を広く世に知らしめた。

棟方志功「板散華」(写真提供 山口ケイコ)

板画(ばんが)宣言については、こちらのコラムに書きました。

山口邸の棟方作品が初公開されたのは2010年

非常に貴重な棟方志功の作品や資料が多数あることで知られていた山口邸だが、それらが一般に公開されたのは、2010年に三重県のパラミタミュージアムに所蔵されてからのこと。50年近くも個人宅にあったにもかかわらず保存状態が良かったと専門家が述べているところから、山口家で大切に保管されていたことが窺える。

2013年に京都の伊勢丹で山口邸に残された装飾画が展示されたときには、会場に山口邸の内部を再現したコーナー(下のチラシの赤丸部分)も設けられた。

2023年にNHK総合テレビで公開された未公開フィルム

棟方志功と山口繁太郎(NHK総合テレビより)

以下は、2023年4月20日にNHK総合テレビで放送された番組の内容。

去年末、青森出身の版画家・棟方志功の貴重な製作風景を記録した未公開の8ミリフィルムが発見された。フィルムには荻窪の棟方の自宅の増築パーティーの様子などが収録されていた。また東本願寺 渉成園の襖絵の制作風景も収録されていた。撮影したのは津軽地方出身のジャーナリストの山口繁太郎だった。山口は病に侵されていたが、棟方は元気づけようと山口の自宅の襖に絵を描いた。フィルムには2人の友情が映っていた。

引用元

繁太郎はジャーナリストとして、また無二の親友として、棟方の偉業を後世に残そうとしたのだが、病のためこのフィルムが公開されることはなかった。繁太郎が56歳の若さでこの世を去ったときに棟方が書いた弔辞が、番組内で紹介されていた。

兄が逝ツテシマッタ今、
泣イタツテ讃(ほ)メタツテ、
マタ オコリ切レナイ
悲シミモ、何ニモナラナクナツタ。

こんな冒頭で始まる長い弔辞の最後には、「花深処無行跡」(はなふかきところ、ぎょうせきなし)と書かれていた。番組によると、名前は忘れ去られてもその仕事はずっと残るという意味で、出版の世界で夢を追い続けてきた同郷の友へのねぎらいと、自分を支えてくれた感謝が込められているとのこと。

未公開フィルム公開のために一役買った山口ケイコ

山口ケイコ(本人提供画像 2023)

山口ケイコが繁太郎の息子と結婚したのは1998年29歳のとき。山口書店の4代目社長だった夫が2016年に他界し、ケイコは山口書店の社長という重責を背負うことになった。当時高校3年生と中学3年生だった息子ふたりを育てながら、今まで山口書店と山口邸を守り続けてきた。

2022年11月、ケイコが山口邸で保管されていた8ミリビデオや棟方からの手紙の存在を知り合いの学芸員に伝えたところ、すぐにNHK青森から取材依頼が入り、2023年2月、未公開資料とともに、棟方志功と山口繁太郎の関係がローカルテレビで公開されたのだった。評判がよかったために同年4月に全国ネットで再放送されたこの番組にはケイコも登場している。

山口書店が経営するカフェ ISBN8411

棟方志功が滞在していた山口書店の社屋に隣接している建物の一部(上の写真、赤煉瓦造りの部分)は、2022年11月よりカフェISBN8411として営業している。山口繁太郎を知る人が、ひょっこり訪れて昔ばなしをしていくこともあるそうだ。

山口ケイコ: カフェISBN8411にて
(本人提供画像)

ISBN 8411
日常にあるストーリーを編集し届けるための小さな複合施設
(カフェ・ギャラリースペース・レンタルスペース)
京都市左京区北白川上終町4-2
バス停、上終町・爪生山学園京都芸術大学前より徒歩2分
カフェ営業日: 金•土 13時〜17時
駐輪場あり
インスタ:https://www.instagram.com/isbn8411/

※「ISBN」は、International Standard Book Number の略称。ISBN8411は山口書店の書籍コード。

とても気さくなお人柄のケイコさんとおしゃべりしながら、試行錯誤を重ねて開発された絶品の手作りスイーツが食べられるお店です。

ふと思いついて並べてみたらぴったりで、我ながら名案!

棟方志功と大原總一郎

大原總一郎

大原總一郎は財閥の御曹司

山口繁太郎(しげたろう, 1909年生まれ)が、棟方志功(1903年生まれ)と同じ津軽出身で、貧しい家に生まれて小学校しか出ていないという共通点を持っていたのとは対照的に、大原總一郎(そういちろう, 1909年生まれ)の方は、華麗なる一族の御曹司である。

倉敷で大原財閥を築いた父、大原孫三郎が日本最初の西洋美術館である大原美術館を設立したのが1930年。1932年に東京帝国大学経済学部を卒業して倉敷に帰郷した總一郎は、孫三郎とともに西洋絵画を中心に収集を行ったが、民藝運動も応援したため、大原美術館には、棟方志功、濱田庄司、河井寛次郎など、民藝運動を支持した作家による工芸品が多数所蔵されている。
  
棟方志功と大原家の結びつきは1937年、孫三郎が棟方に自邸の襖絵を依頼したことに始まり、棟方は次々と名作を描いては大原家に納めた。

倉敷国際ホテルの棟方志功作品、世界最大の木版画

倉敷国際ホテルのロビーにある棟方志功の木版画

倉敷国際ホテルロビーには、棟方志功が手掛けた作品の中でもっとも大きく、木版画としては世界最大の大作(幅12.84m・高さ1.75m)が飾られている。(大板壁画「大世界の柵・坤(こん)」副題「人類より神々へ」)これは1963年、大原總一郎が倉敷国際ホテルを創設した際に棟方に制作を依頼したもの。

作品はベートーベンの第九、情熱、皇帝等の韻律を裸体の中に響かせ、神々の芸術への讃歌を版画化したとか、ピカソの「ゲルニカ」を見た感動をモチーフに作ったとも言われている。

わたしは倉敷市で生まれ育ちました。大原美術館倉敷国際ホテルも実家から徒歩圏内で、高校時代に自転車で通った通学路の道中にあるなじみ深い施設です。

大原邸は一般公開されている

旧大原邸 (2023年7月撮影)

江戸時代後期の豪商屋敷「旧大原家住宅」は、国の重要文化財に指定されていて、2018年4月より「語らい座大原本邸」として一般に開放されている。

2023年夏、「大原家ベヒシュタインコンサート」に招待していただく機会があり、初めて大原邸の中に入りました。

大原家のピアノ、ベヒシュタイン
(2023年8月撮影)

※大原家で代々受け継がれてきた「ベヒシュタイン」は、1928年ドイツ製アップライトピアノ。

山口邸と大原邸に描かれた棟方作品の展覧会2023

棟方志功生誕120年記念特別展「友情と信頼の障屏画(しょうへいが)」
(2023年6月~9月)
※障屏画とは屏風絵や襖絵など日本の伝統的な室内装飾画の総称。

障屏画は、依頼主の元へ赴きそこで直接筆を下ろして描くものであるため、プライベートな場である個人宅の場合は特に、棟方と依頼主との間に強い結びつきがあることを物語っています。

棟方志功生誕120年を記念して開催する本展では、障屏画を主とした作品を通して、棟方の多彩な芸術に影響を及ぼした友人や支援者との親交についてご紹介します。倉敷の大原邸に描いた《御群鯉図》や京都の山口邸に描いた肉筆画は本県初公開となります。

※京都の山口邸に描いた肉筆画は前期のみ、倉敷の大原邸に描いた《御群鯉図》は後期のみの展示です。

★友情プライス★
本展のテーマにちなみ、苗字が「山口」「大原」のお客様は団体料金にて観覧できます!

棟方志功記念館

特別展のYoutube予告動画(1分50秒)

おわりに:花深処無行跡

山口繁太郎 (1909 – 1966)と大原總一郎 (1909 – 1968)は、同じ時期にこの世に存在した。ひとりは貧しい家庭に生まれ、もうひとりは裕福な特権階級に生まれ、まったく違う境遇を生きながら、共に棟方志功 (1903 – 1975)というひとりの芸術家とほぼ同時期に出会い、それぞれ特別なつながりを持った。

上で紹介したNHKのテレビ番組で知った「花深処無行跡(はなふかきところぎょうせきなし)」は、調べると棟方が好んでよく使ったという仏教用語だった。
「大自然の中では、人の足跡などすぐに消されてしまう」、つまり「どんなに偉い人であろうと、金持ちであろうと、この大自然の中では、私たちは皆とても小さく、私たちの足跡などすぐに消されてしまうものだ」という意味である。
私たちが皆とても小さいのももっともながら、わたしはこのコラムをまとめながら、棟方志功も山口繁太郎も大原總一郎も、そして山口ケイコも、みんな等しく偉大だと感じた。

当サイト内関連コラム

「わだばゴッホになる」の棟方志功、ゴッホのひまわりを見て「いいなァ、いいなァ」と畳をたたく(2023.10.22)

参考一覧

・山口繁太郎のプロフィールは、青森県立美術館の資料(PDF)より。

棟方志功と椿館

・クラレ創業80周年記念 「幻の棟方志功 ~大原美術館、クラレ秘蔵作品より~」を神戸・東京で開催(株式会社クラレニュース 2006.6

歴史:倉敷国際ホテルと棟方志功


※アイキャッチ画像は山口書店の一部

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