ユングの精神分析を受けてヘッセは、「分析というものは人間の中核に揺さぶりをかける。それは辛い作業に他ならない。しかしそれは、救いになるのだ・・・。」と書き残している。あまり知られていない貴重な論文を見つけたので一部を訳した。(2,300文字)
ヘルマン・ヘッセが「デミアン」を書いた頃、精神的危機に陥りユングの弟子であるラング(Josef Bernhard Lang)に分析を受けていたのは有名な話であるが、ヘッセがユングにも分析を受けたことがあるのはあまり知られていない。
ユング(1875.7.26 – 1961.6.6)とヘッセ(1877.7.2 – 1962.8.9)はほぼ同年齢でどちらもスイスに居住していたが、彼らにはそんな共通点だけでなく物理的な接点もあった。
以下、1997年にドイツのカルフ※で催された第9回ヘッセ国際学会( International Hesse Colloquium )で発表された論文より。(本文の拙訳と見出しはとーなんによる。)
ヘッセ、ユング派の分析を受ける
ヘルマン・ヘッセがユング派の心理療法を受けることになったのは1916年の春だった。その冬、精神的な危機に陥ったヘッセは、ユングの弟子であるラングの心理療法を受けた。ヘッセが入院していたスイス、ルツェルン近くのサナトリウム(精神科の療養所)内のプログラムでラングが精神分析的心理療法をしたのがきっかけだったが、ヘッセは、これが自分にとって非常に役立つものだと考え、退院後も分析を受けるために毎週ルツェルンからベルン(片道100キロ強)までラングのもとに通った。このときには1回3時間のセッションを72回、つまり200時間あまりの分析を受けている。
ヘッセ、ユングに会う
1917年の秋、ヘッセはスイス、ベルンのホテルでユングに初めて会い、そこでユングといろいろ話す機会を得た。面白いことに、その時のヘッセのユングや深層心理学に対する反応は、好悪の混じったアンビバレント(両面的)なものだった。
ユングとのこの会合のあと、ヘッセは日記にこう綴っている。
昨日、チューリヒのユング博士から電話をもらい、夕食に招待されてホテルで夜の11時ごろまで話してきた。この初回面談の間に、私の彼に対する気持ちは何度か変わった。最初は彼の自信に満ちた態度が魅力的に見えたが、そのうち嫌な感じもしてきて、しかしそれでも結局、私の彼に対する印象は概ね肯定的なものだった。
ふたりが最初に会ったのは、ユング42歳、ヘッセ40歳のときですね。
ヘッセ、ユングの分析を受ける
ヘッセは、ユングの著作を読み始めたが、それらは彼に独創的な視点を与えるものだった。非常に感銘を受けたヘッセは、次の人生の危機に際しユングの分析を受けることを希望した。1度目の結婚が破綻し、「シッダールタ」の執筆が進まなくなってしまったときだった。
1921年の夏、ヘッセはチューリヒ、クシュナハトのユングの自宅で数週間に渡る集中的な分析を受けた。この頃、ヘッセが書いた手紙には、彼がどんなにユングの分析に興奮したかが書かれている。
耐えがたく困難な時期の真っ最中ではあるのだが、私は今、衝撃的な精神分析体験を味わっている。分析というものは人間の中核に揺さぶりをかける。それは辛い作業に他ならない。しかしそれは、救いになるのだ・・・。私の分析家としてのユング博士の能力は、とにかく並外れている。
ユングとの集中分析を終えたヘッセは、「本当はもっと続けたかった。ユングは知識的にも人格的にもとにかく素晴らしい。心からお礼を言いたいし、短い期間とはいえユングの分析を受けることができたことを光栄に思う。」と述べている。
ヘッセとユングの弟子ラングとの親交
1920年代の半ば、二度目の結婚が破綻したときヘッセは、再びラングの分析を受けている。この頃ふたりの間には、私的な友情関係もあった。その後、ヘッセが自殺を考えるほどの精神的危機を経験したとき、ラングは友人としても分析家としてもヘッセを支えた。
1927年ごろ、ラングが重い病にかかったとき、ふたりの役割が交代し、ヘッセはラングにこれまでの恩を返すことができた。3度目の結婚でようやく落ち着いた暮らしを手にしたヘッセは、その頃にはもう心理療法の助けを借りることも必要なかったのだ。ふたりの友情は生涯続いた。
(“It shakes you to the very core and is painful. But it helps…” Hermann Hesse and the psychology of C.G. Jung by Gunter Baumann, paper given at the 9th International Hesse Colloquium in Calw, 1997の一部をとーなん拙訳)
※出典:https://www.hermann-hesse.de/files/pdfs/en_lebenskrise.pdf
ヘッセは1877年生まれ、ラングは1881年生まれで二人は同世代ですが、ラングはヘッセの没年より17年前の1945年に64歳で亡くなっています。
あとがき
ユング派分析家のラングについての情報は、ヘッセの分析家であったということ以外に探せないので、どんな人であったのか知ることができない。このコラムは、ヘッセがユングの分析も受けていたということを主題にしてまとめたが、ヘッセにとってラングの方が重要な人物であったことは明らかである。