(最終更新日2021/5/3)
ユングは、心理的な苦しみには意味と目的があると考えた。不安や抑うつをユングがどうとらえ、それを克服することにどのような意味があるかについて、ユング派の一般的見解が上手くまとめられた英文記事”How does one overcome depression and anxiety?” by Jesamine Melloを拙訳した。(全3ページ6,700文字)
記事の挿絵に使われているムンク、ゴッホ、ルロワールの馴染みの名画からも、それぞれに感じるところがあると思い、本文では言及されていないものも目次に入れている。
Contents
ユングにとって不安や抑うつとは
エドワード・ムンク「不安」
(文=ジェサミン・メロ)
わたし自身の個人的経験からも、また心理カウンセラーとしての職業的経験からも言えることだが、不安や抑うつについてのユングの深層心理学的視点は、問題に対する深い洞察だけでなく本質的な癒しを与えてくれる。
ここで癒しとは、薬を使って不安や抑うつを和らげたりするのではなく、不安や抑うつに意識的に向き合うことによって、それらを受け入れながら越えてゆくことを意味している。
ユングの引用から始めるが、いきなりこのセリフだけを聞くと反発を買ってしまうかもしれない。しかし、ユング自身の抑うつや不安の体験から述べられたこの言葉には、さまざまな深い意味がこめられている。
本当の苦しみに向き合おうとしないことが、すべての心の病の元といえる。
カール・ユング
ここで、ユングが”本当の苦しみ”で意味しているのは、不安や抑うつはもっと深いところに問題があることを示す表面的な症状にすぎず、その問題とは、心理学的にそれまでにきちんと解決されてこなかったたましいの問題である。
「未解決のたましいの問題」・・・とても心に響きます。
エドワード・ムンク「叫び」
不安や抑うつは、西洋医学では脳内物質のアンバランスによるものだと見なされ、流行りの認知行動療法では「認知のゆがみ」によるものだと説明される。
だから西洋医学では、薬理学の視点から脳内物質を調整するための薬が処方される。
また認知行動療法では、否定的な思い込みや考え方が否定的な感情を引き起こすのだとして、その否定的な認知のしかたを否定的でないものに変えることによって、否定的な感情が起きるのを防ごうとする。
しかし心理的な苦しみというのは、たんなる脳内物質や考え方のアンバランスではない。こころとからだのつながりを無視してそのようなみなすことは、被害者的発想につながってしまう。
たとえば自分にまったく落ち度がないのに交通事故に遭ったら、自分はなんて運が悪いのだろう、なんで自分だけこんな目に遭わなければいけないのだろうと思うのが被害者的発想です。不安や抑うつに悩む人の中には、これと同じように「なんでわたしだけこんな目に」と思う人もいるかもしれませんが、不安や抑うつ症状は、たまたま運が悪くて現れるものではない、というのがユング派の考え方です。
わたしたちは、こころもからだも含めた全体的な存在であり、わたしたちが苦しんでいるときは、いつだってその苦しみはあらゆるレベルで表現される。不安や抑うつも、その人の全レベルに、つまり感情にも、肉体にも、考え方にも、生理的にも影響を与える。
つまりユング派的視点から見ると、不安や抑うつもまた全体的な生体システムがバランスを崩していることの現れといえる。
わたし自身は、必ずしも薬物療法や認知行動療法を否定しているわけではありません。実際に「薬を飲んですっかりラクになった。もっと早く飲めばよかった。」という人は、抑うつで長年悩んでいた精神科医の中にもいますし、認知行動療法で短期間でそれなりに元気になったと感じる人もいます。
私(著者)自身の不安や抑うつ体験
わたしがユング心理学について語るとき、わたしはユング派としてユングの理論を述べているのではない。ユングが表現していることを自分が経験したからユングの言葉を使っているのであって、ただユングがそう言っているからという理由で話したことは一度もない。
かれこれ何十年も、わたしは自分の心理的課題に取り組んできた。わたしは、人から見ると、すべてがうまく行っていてなんの問題もないように見えるタイプの人間だった。しかしそんな外面とは裏腹に、内面的にはバラバラになってしまいそうなほど苦しんでいた。
幼少期の体験にその原因を見つけることは簡単だったが、それがわかったからといって、不安や抑うつ感の苦しみはなんら変わることはなかった。
不安や抑うつというものは、知的に原因を理解するだけでは解決されない非合理的な要素を含んでいるからだ。
非合理的なものである不安や抑うつを自分と切り離すためには、自分自身にいくつかの難しい問いかけをする必要がある。