仏教では、「悟りの境地に達する」という言い方がありますが、ユング派の分析ではそれに匹敵する言い方がありません。
たとえば「聖なる結婚(ヒエロスガモス)」のような、ゴールや到達点のイメージはあっても、それは、「完全に成し遂げ得るもの」ではなく、「精進すれば、いつかたどりつく地点」でもありません。もちろんユングも「到着」していません。わたしたちの短い人生では、そんなことは無理なのです。
決して、ゴールには到達しないけれども、それを承知で、それでもゴールを目指して進んでいく。自分の小さな自我(自分の頭で把握している、意識できる範囲での自分。)を、少しでも、大きな自己(セルフ:無意識、自分の知らない自分を含む全体的な自分。)とつなげて広げていこうとする。
そういう意味で、分析は、ゴールに向かう過程(プロセス)といえます。
このことが、以下のリルケの詩の一節で、印象深く表現されています。
物の上にひろがって大きくなる
輪のような生を私は生きている。
おそらく最後の輪を完成することはないだろう。
しかし私はそれを試みようと思っている。
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私は神のまわりを、太古の塔のまわりを廻っている。
そしてもう千年も廻っている。
しかも私はまだ知らない。自分が一羽の鷹であるか、一つの嵐であるか、それとも一つの大きな歌であるかを。
(尾崎喜八訳)
(冒頭の写真はスイス・ラロンにあるリルケの墓地)