※JCZ ジャパンクラブ・チューリッヒ、2010年3月号の会報に掲載した内容です。
一昔前に” Men Are from Mars, Women Are from Venus”という本がベストセラーになりましたが、男と女って、まさしく火星から来た人種と金星から来た人種じゃないかと思えるほど違いのある“異星人”ですよね。そんな異星人同士が、同じ星の、しかもひとつ屋根の下でいっしょに暮らすなんてことは、どう考えても難しいに決まっているのですが、わたしたちはふつう、そんなことはそれほど心配せずに結婚してしまいます。それどころか、結婚というものに「なんとはなしに」期待さえもってしまうものです。実際にこれだけ多くの結婚が不幸な結末を迎えているのを目の当たりにしても、わたしたちは、「なんとなく」、「わたしは違う」「この人は違う」「こんどは違う」と無邪気に信じることができるのですから不思議なものです。
ジェイムズ・ホリス(アメリカのユング派分析家)は、結婚ほど無意識的な重荷を負わされている社会概念は、他にないと言っています。新郎新婦が結婚式でみんなに祝福を受けているとき、本人は意識していなくても、無意識には「この人がきっと自分を幸せにしてくれる」とか「この人は、ずっと自分のそばにいてくれる」という途方もない期待が潜んでいます。そして、遅かれ早かれこの無意識の期待が裏切られて「昔のアナタは、こんな人じゃなかった!」ということになるのですが、実のところ相手はもともと“異星人”なのですから、結婚前にわかっているつもりだった相手というのは、自分のつくっていた(無意識に期待していた)イメージにすぎないのです。
おとぎ話の中では、「王子様とお姫様は結婚して、それからずっと幸せに暮らしました。」というハッピーエンドがおきまりですが、現実ではそんなことはまずありえません。でも、結婚の本当の醍醐味は、むしろここから始まるともいえます。関係の中で生じる葛藤や摩擦を通して、相手はもちろん自分の醜態を見ること、幻滅や怒りや悲しみなどの否定的な感情に直面すること、そうしながらなおかつ、受け入れがたい異質なものに自分を開いていくこと、こうした“苦行”を通じて、わたしたちは自分を広げ、自分自身や世界についてもっと知ることができるという意味で、結婚は、自分を成長させてくれる絶好の器となるのではないでしょうか。
川の中で、近いところに立てられた2本の杭(似たものカップル)の間に張られた網は、破れにくいが獲れる魚の数は少ない一方、互いに離れた杭の間の網は、破れやすいけれど、獲れる魚は多い。どこかでこんなたとえを聞いたことがあります。「ツーといえばカー」の関係もいいですが、異星人カップルや国際カップルこそ、大漁の可能性を秘めているのかもしれません。
グッゲンビュール(スイスのユング派分析家)は、結婚は万人のためのものではないとした上で、それでもあえてそれを選んだ者は、いわゆる「幸福な結婚」を求めるよりも、結婚を救済をもたらす道のひとつとしてとらえるべきだと言っています。ダンテが地獄を通らずしては天国に達しなかったように、結婚も苦しみや葛藤を経てこそ、深い実存的満足を与えてくれるものになるのだと。
表題部の写真は、ゼウスとヘラ。「聖なる結婚」とされているふたりの結婚生活も闘いに明け暮れた壮絶なものでした。
※この記事が掲載された「エーデルワイス」誌、実際のPDFページはこちらへ。(内容はいっしょ。読み込むのに時間がかかります。)