「コンステレーションについて」という題目で行われた河合隼雄氏の京都大学退官前の最終講義(1992年3月14日)の動画を視聴した。
(以下、敬称略)
河合隼雄の選んだ京都大学最終講義のテーマ
河合隼雄(1928 – 2007)は、自分にとっても現代にとっても大事なテーマとして、最終講義に「コンステレーション」を選んだ。
現代に生きる人々は、因果関係でものごとを判断する考えに囚われすぎていると考えて、河合さんは、コンステレーションという新しい考え方を投げかけてみたいと思っています。
(NHKテレビで放映時のさいしょのナレーションより)
この講義から30年が経ったが、わたしたちは因果関係でものごとを判断する考え方にいっそう囚われている気がする。
Contents
コンステレーションとは
コンステレーション(constellation: conはwith、stellaは星の意。)とは、星座のこと。ひとつひとつ輝いている夜空の星が並んで星座ができるが、その星の並びに理由や法則があるわけではない。
上の写真はオリオン座。数百光年という地球のはるかかなたに、まったくバラバラに存在している星たちが、地球から見るとまるでオリオンとして同一平面状にあるかのごとく見える。
このように、もともと全く関係ないと思われたいくつかの事象が、ある関係性をもって互いに「布置」されていることをコンステレーションという。(「ユング心理学辞典」より)
シンクロニシティ(共時性)もコンステレーション
コンステレーションの中でも、とくに注目したいのがシンクロニシティ(共時性)であり、因果的に説明できない複数のことが、同時的に起こるときに、その全体的なコンステレーションを読むということが、ひとつの文化や時代の理解に役立つと河合隼雄は言う。
「ブタヤマさんたらブタヤマさん」
コンステレーションをうまく示している例として、河合隼雄が京都大学最終講義の中で紹介したのが長新太の絵本「ブタヤマさんたらブタヤマさん」(文研出版2005)である。
ブタヤマさんのストーリー
蝶取りに夢中になっているブタヤマさんの背後から、おそろしいものが次々に迫ってくる。でも、ブタヤマさんは気が付かない。
ブタヤマさんたらブタヤマさん
うしろを見てよ、ブタヤマさん
と言われて、
なあに、どうしたの?
なにかごよう?
と振り向いた時には、何もいないので、ブタヤマさんはまた蝶取りを続ける。背後からしのびよるのが巨大な動物だったり、おばけだったりしながら、このパターンがなんども繰り返されるストーリー。
ブタヤマさんとコンステレーション
要するに、コンステレーションを見るということは、いいときにうしろを見ないとだめなんですね。ぱっと見たら、ぱーっと見えるんです。ところが、それを見ないとわからない。
河合隼雄
コンステレーションは因果的考え方を補う
河合隼雄によると、こういう原因があってこういう結果があるということがわかれば、その現象をコントロールすることができるようになるため、因果的にものごとを考えることは人間にとって、とても大事である。因果関係を見つけたら勝ちとさえ言える。
それで人間は、なんとかしてこの因果関係を見つけようとするのだが、自分や他人のことを考えるときに、因果的に考えすぎるとあやまちをおかしてしまう。
たとえば不登校児に向かって、なぜ学校に行かないのかと問いただす親の例を考えてみる。
子供は、学校に行っていなかったり、行けていなかったりするのだが、その本当の理由を本人がわかるはずもない。
しかし理由を知りたくて親は詰め寄る。
さらにこのとき親は、たいてい「自分以外のところに」原因を探そうとする。母親が、子供が学校に行かないのは父親のせいだと思ったり、父親は母親のせいではないかと疑ったり、あるいは学校や教師の責任だと思ったりという具合に。
自分の外に原因と結果があるかのように考えるこの態度は、自分を安全なところにおいている。
たとえていうなら、リモコンのスイッチを押してテレビがつかなければリモコンが壊れているとか、電池が切れていると思うように、子供が学校に行かないという結果の原因は自分とは無関係に存在すると考え、子供が学校に行くためのボタンを探して押そうとしているようなものである。
しかし実際は、人間が生きている以上、現象の中に常に自分が入っていて、自分を含めた全体がお互いに不思議な関係を持っている。
自分の子供が学校に行かないときに、誰が、あるいは何が悪いかではなく、子供が学校に行かないということに、どんなことがコンストレートしているのか、その家庭や、社会や、あるいは個人にはどうかという見方をする、これがコンステレーションという見方であり、これによって、今まで見えなかったものが見えてくる。
コンステレーションの見方には、全人的なかかわりが必要
全体的なコンステレーションを読もうとすると、たとえば子供が学校に行かないということが自分にとって何を意味するのかということになる。
自分を切り離して原因と結果を追求するのではなく、自分がこう生きなければならないとか、自分が動いていこうということになる。
これを河合隼雄は「全人的なかかわり」とし、いろいろなことが便利になった(30年前の)現代は、この全人的なかかわりが少なくなってしまっていると言う。
近代というのは、全人的な関わりを避けて、機能的に能率よく、ということを目指して成功したのだが、それを家庭内でもやろうとすることにはあやまりがあるというわけである。
コンステレーションの落とし穴
コンステレーションという新しい見方を身につけることは有用であるが、こういう考え方が好きになりすぎるのも問題であると河合隼雄は付け加えている。
なんでもがコンストレーションに見えてきて、たとえば「わたしが門から出たときに、石がふたつ置いてあったのは、わたしが今日、殺されるということがコンストレートしている。」などと言い出すと、現実から離れてしまい、もっと深いコンステレーションを読み損なってしまう危険性をもってくるからである。
「こころの最終講義」
このコラムもかなり長くなってしまったが、講義内容のすべてを網羅することはできなかった。
40分の講義はYoutubeでも聴けるので、ぜひお勧めしたい。河合隼雄の肉声で聞くと、本で読むのとはまた違った印象を受けると思う。
本では、講義内容が「こころの最終講義」(河合隼雄・新潮文庫2013)に収められている。
付記
河合隼雄のこの京大最終講義のことを教えてくれたクライエントは、30年近くも前のある日テレビをつけたら、偶然この放送をやっていたのでなにげなく見始めて衝撃を受けたそうだ。
この偶然もシンクロニシティだが、それから長い年月が経って、このクライエントとわたしというふたつの星の間に線が結ばれたというコンステレーションも感慨深い。
地球の裏側にひっそり棲息しているわたしを見つけて、線をつないでくれた他の星のみなさんにも、河合隼雄という大きな星にも感謝の念が湧いてくる。
【2020年3月14日、加筆修正】
偶然にも、最終講義の日は28年前の今日だったことに今、気づいた!
ちなみに今日は、河合隼雄氏が亡くなって1週間後に生まれた息子の日本人小学校卒業式の日だった。コロナの波がこちらにもやってきたために、ギリギリ・すべり込みという感じで開催された。