家族でも会社でもその他さまざまな組織や団体でも、存続するためにはトップ、長の世代交代が必要だが、継ぐ者と継がれる者の関係や力配分のシフト、周りの人との関係などそこにはいろいろな困難がつきまとう。
ましてや日本の伝統芸能や華道、茶道、武道など道と名のつく世界での、とくに初代から二代目への後継となると、その難しさには格別のものがありそうだ。
わたしは合気道にも武道にも無縁でなんの経験も知識もないが、調べ物をしていて目に留まったふたりのことをまとめてみた。公表されている事実から勝手に想像する範囲だが、世代交代の難しさの一例かと思う。
合気道の創始者は植芝盛平
合気道(合氣道)は、武道家・植芝盛平(うえしばもりへい、1883-1969)が大正末期から昭和前期にかけて創始した武道。
21世紀初めの時点で「合気道」と言えば、一般的には植芝盛平の興した合気道を指し現在、日本国内100万人・世界全体で160万人ともいわれる合気道人口の8割は、植芝盛平の設立した合気会(あいきかい)に所属している。
和歌山出身の植芝は、「身長150cm台の小柄な体躯から特異な技を繰り出す武道家」として評判になり、東京に進出したそうだ。
小柄でも、肩幅・胸板の厚みなど骨格・筋肉は非常に逞しく、怪力の持ち主であったそうで、体重は壮年期でも75kgに達していたという。日露戦争出征時(21~22歳)、「五尺一寸五分の短身ながら体重は二十貫」(156cm, 75kg)という資料が残っている。
二代目植芝吉祥丸
1969年盛平死去後、盛平の三男の吉祥丸(うえしばきっしょうまる、1921-1999)が合気会の二代目道主となる。吉祥丸は、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業後、新日本証券でサラリーマンの傍ら合気道を指導していたが、のちに合気道に専念するため会社を退職している。
昭和20年代に新規の入門者がなかなか集まらなかった合気会の状況を挽回するために、吉祥丸は当時としては革新的な試みを行い、合気道の全国的な普及に成功した。
高弟、藤平光一
藤平光一(とうへいこういち、1920-2011)は、植芝盛平が亡くなる3ヶ月前に最高段位(10段)を許された高弟で、存命中に10段位を許された唯一の人物である。
幼少の頃は体が弱く、父親から柔道を習っていたが、19歳のとき植芝盛平に入門。慶應義塾大学経済学部卒業後、陸軍に入隊。派遣先の中国より帰国後は、ハワイをはじめとするアメリカ各地で合気道の指導をした。
植芝盛平の死後まもなく合気会から独立して、心身統一合氣道を創始している。
藤平光一と植芝吉祥丸
藤平光一が独立した経緯について心身統一合氣道のサイトには、このように書かれている。
合氣道の創始者である植芝盛平師が逝去した後、藤平光一は、合気会後継者であった植芝吉祥丸氏との合気氣道の理解で違いがあった。 そのため、氣の原理を普及するため「氣の研究会」を1971年に設立するも、1974年、いよいよ財団法人合気会理事および師範部長の座を辞することとなった。
しかし、ウィキペディアには植芝吉祥丸と藤平光一の確執をほのめかす記述が見られた。
植芝盛平逝去後、藤平光一は、当初は合気会の師範部長を務めていたが、二代道主植芝吉祥丸の指示でハワイ、アメリカ本土の諸道場から藤平の写真が取り外されるという事件が起こった。これを機に合気会から独立。1974年(昭和49年)に心身統一合氣道会を立ち上げた。
創始者の息子と高弟、年齢がほとんど同じふたりの関係が実際にどのようなものだったかは知る由もないが、「植芝吉祥丸の指示で、藤平光一の写真が道場から取り外されるという事件」というぐらいだから、少なくとも吉祥丸側には、藤平光一に対する否定的な感情があったのだろう。
息子が通っているストックホルムの空手クラブ(剛柔流)でも、借りて使っている体育館の正面に毎回、カイソとヤマグチサイコウシハンの大きな白黒肖像画がうやうやしく掲げられ、稽古の前には全員正座で写真に向かって敬礼している。あの写真が取り外されるというのは相当なことだと想像つく。
創始者植芝盛平は「争いもない、戦争もない、美しいよろこびの世界を作るのが合気道である。」と言っているが。
争わざるの理(ことわり)
ここで思い出されるのは、別コラムで書いた藤平光一の「争わざるの理」だ。自分の写真が道場から取り外されたとき、彼がこの言葉を実践できたのか気になる。
どんな逆境にあっても、心を痛めずしてこれを乗り切り、どんな悪口を言われても心に受けつけず、どんな相手が襲ってきてもその力を受けず、笑ってこれを導くのが争わざるの理なのです。
藤平光一
万流を流れ込むに任せている大海のごとき度量で、相手のマイナスを全く心に留めないでいられて初めて、争わざるの理と言えます。
枝分かれしていく団体、洋菓子のヒロタも
現在、合気道の「植芝系」の流派には、上述の合気会と心身統一合氣道以外にも七つぐらいあるらしい。
派閥といえば精神分析の世界でもフロイト派、ユング派、アドラー派、等々がある。
ユングが「わたしはユングであって、ユング派ではなくてよかった。」と、派閥について揶揄して言ったのは有名だが、精神分析第一世代の彼らが亡きあとは、こんどはフロイト派やユング派やアドラー派の内部にどんどん新しい一派ができていった。
ついでに言えば、スイスのユング研究所も分裂したし、わたしが学生時代関西にいたころの好物でよく買っていたヒロタのシュークリームも創業者である廣田定一の死去後、息子2人の対立で二社に分かれて製造されていたことがある。(分家の大阪ヒロタはその後経営破綻して廃業した。)
部外者にとっては、なに流でも、なに派でも、シュークリームのパッケージが「ヒロタ」でも「Hirota」でもどうでもいいのだが、内部にいる者にとっては、そのどうでもいい違いがどうでもよくないことも多い。それでわたしも一応「ユング派」と名乗っている。
※このコラムの内容や掲載写真は、とくに但し書きのある箇所以外はウィキペディアからの引用。