(2,000文字) たくわんを使って自分の食後の食器をきれいにするという禅寺体験談を聞いて、以前に、日本のマナーにのっとりきれいに食べられた皿が、必ずしも肯定的に評価されるとは限らないと知ってカルチャーショックを受けたことを思い出した。文化の違いだけでなく、わたしたちは誰もが、頭では、人が自分と同じように考えるわけではないことを知っているのにも関わらず、なんとなく自分の考えや感じ方が正しいと思っていることも多い気がする。スイス人の分析家に、日本人は全員「強迫神経症患者」だと言われたときにも、はっとした。
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800年続く禅寺の食事作法
閏年(うるうどし)の今年(2024)は、四国八十八箇所を回るお遍路巡礼の「逆打ちの年」で、通常と逆回りに巡礼を行うことでご利益が倍増するそうだ。この「逆打ちお遍路」に挑戦したクライアントさんが、道中に宿泊した禅寺の食事作法が興味深かったと言って教えてくれたその作法は、食事の最後にたくわん漬けを1枚だけ残し、それをスポンジがわりにして茶碗を洗うというやりかたであった。
この習慣は、茶碗やお皿をきれいにする合理的な方法として考えられています。道元禅師が永平寺を開いて以来、800年以上もの間、この伝統が守られてきました。
禅宗の食事作法は、感謝と思いやりの心を表現する方法として捉えられています。これらの作法は、単なる規則ではなく、周囲への配慮や謙虚な心を表す行為として重要視されています。
西洋人には日本の美徳は体感としてはわからない
日本人は子供の頃から、お百姓さんに感謝しながら茶碗に一粒の米も残さないように食べるようしつけられていて、それを当たり前のことだと思っているので、身も心も、たやすく禅寺の作法に従うことができるが、それが日本の文化や伝統の一端だろう。
文化を共有しない西洋人たちが品よくスマートに食べ終わったあとの食器は日本人から見れば「汚い」し、自宅に招いて日本食を出したときなど、全員の食後の茶碗が、揃いも揃ってごはん粒だらけでびっくりする。しかも食べ残したつもりもない彼らは、とくに白ごはんがおいしかった、店で食べるのと全然違ったなどと ごはんを絶賛するのだ。
そもそも彼らには食べかすが残っているのが「汚い」という認識もない。使用後のトイレをきれいにするのとは話が違う。それどころか、残さずきれいに食べ終えた皿は、「まるで犬猫が舐めたみたい!」「まだ食べ足りない?」などとみなされることさえある始末。
実際にQUORAで、こんな質問を見かけたこともある。
When you finish a plate clean in a fine-dining restaurant, does that make you look starved and classless? Should you leave at least some amount of it?
(高級なレストランで全部平らげたら、よっぽど飢えていて下品な輩に見られますか? わざと少し残した方がいいのでしょうか?)
レストランの給仕たちからの回答は、そんなことはない、お客が残さずきれいに食べてくれたらおいしかったという証拠になるし、ゴミも捨てなくてすむので嬉しいばかりですよというものだったが、こんな質問自体が、日本ではありえないことを思えば、やはりこういう見方は少なからずあるのだなぁと思った。
ヨーロッパ人に日本のマナーを教える
ヨーロッパで生まれ育った息子も例外にもれず”汚い”食べ方をするので親は頭を抱えるのだが、残さず食べることがよいことだという価値観がない息子に、日本のマナーを教えるのは難しい。せいぜい「日本に行ったら、絶対にこの食べ方はNGである」ということを言い聞かせるのが関の山だった。
そんなわたしに日本人の友人から送られてきたのがこの写真。武道の稽古のために来日した西洋人に、この通り、ごはんの食べ方ルールを教えたそうだ。
日本の美徳が海外で通じない、その他
以下はいつかどこかで書いたと思うが、いずれも、外国で暮らすようになるまで気づかなかった視点で、聞いたときは新鮮だった。
皆勤賞は偉くない
西洋には皆勤賞はない。むしろ、病気のときに出て来られると迷惑。
訪問先で、自分の脱いだ履き物を揃えられるのは気分がよくない
お客として訪問した日本人宅で、自分が脱いだ履き物が帰りにきれいに揃えられているのを見ると、「自分の脱ぎ方がまずかったのかな」と思うし、窮屈に感じるらしい。もっと驚いたのは、「早く帰ってほしいみたいで、気分がよくない」という声。(複数の韓国人)
日本の宿のトイレのスリッパは、日本人の集団強迫神経症
これはスイス人の高名な分析家に指摘された。いちいちトイレでちまちまとスリッパを履き替えるのは、異常、クレイジーとのこと。たしかにあれは、昔の和風便器の名残なのでは!?