自分が発表した童謡に対して、こんな残忍すぎる歌は子供に歌わせられないという批判を受けた北原白秋の、あっぱれな反論を紹介。(1,000文字)
近代日本を代表する詩人である北原白秋(1885-1942, 享年57歳)は、「からたちの花」、「ゆりかごのうた」、「この道」など、今もなお歌い継がれる童謡の名曲を数多く発表しているが、彼の童謡の中には、残虐であると批判を受けたものもある。
ここで紹介するのは「金魚」。心細い気持ちで留守番している子供の視点で語られている。
「金魚」
北原白秋「金魚」
母さん、母さん、どこへ行(い)た。
紅(あアか)い金魚と遊びませう。
母さん、歸(かへ)らぬ、さびしいな。
金魚を一匹(いつぴき) 突(つ)き殺す。
まだまだ、歸(かへ)らぬ、くやしいな。
金魚を二匹(にイひき)締(し)め殺す。
なぜなぜ、歸(かへ)らぬ、ひもじいな。
金魚(きんぎよ)を三匹(さんびき)捻(ね)ぢ殺す。
涙がこぼれる、日は暮れる。
紅(あアか)い金魚も死(しイ)ぬ、死(し)ぬ。
母さん怖(こは)いよ、眼が光る、
ピカピカ、金魚の眼(め)が光(ひか)る。
この作品に対して公に異議を唱えたのは、詩人で作詞家の同業者ともいえる西條 八十(さいじょう やそ、1892 – 1970、享年78歳)。子供の有する残忍性が何ら批判されることなく歌われているのはいかがなものか、こんな童謡はとてもじゃないが自分の子供に歌わせる気にならないというようなことを言っている。(詳しくは文末の参考文献参照。)
この批判に対する北原白秋の反論があっぱれで、このコラムで紹介したい内容になります。
或る作家(=西條八十)が、私の数百篇の中の一篇『金魚』を以って不用意にも単なる残虐視し而も私の他の童謡にも累を及ぼすまでの小我見を加えた。私は児童の残虐性そのものを肯定するものではない。然し児童の残虐性そのものはあり得る事である。私の『金魚』に於いても、児童が金魚を殺したのは母に対する愛情の具現であった。
「白秋詩歌一家言・童謡私観」
母親への思慕の念が強く、帰らぬ母を待ち続ける寂しさや心細さが増す余り、無力な金魚を次々に、罪悪感も無しに殺してしまった。
この衝動は悪でも醜でもない。
みなさんはどう思われますか?
童謡は探せなかったが、カラオケ動画を見つけたところ、歌詞とは裏腹に、昔の童謡らしいいたってのどかで明るい曲調だった。
ぜひ口ずさんでみてください。
■当サイト内関連コラム
「私の童謡はただ美しいとか上品とか云ふばかりを主にして居ますのではありません。」を含む北原白秋の文章を抜き書きしました。
【参考】
●研究論文「生き物の虐待や死を語る金子みすゞの作品における視点の特徴」ナーヘド・アルメリ(リンクは貼れないが、検索欄に論文名を入れるとPDFで閲覧可能)
●ば○こう○ちさんのブログページ