クライエントの中に、任務を遂行している「スパイ」のイメージに自分を重ね、どこかで自分を隠して生きているという人が少なからずいる。
スパイといえば、犯罪史上に名を残す北朝鮮の金賢姫(キム・ヒョンヒ)の実話は、どんな小説よりも衝撃的だった。金賢姫のことを知らない世代も増えてきたので、ウィキペディアの内容を簡単にまとめておこうと思いきや、最近の金賢姫の映像、忌野清志郎がこの事件を歌にしていたことなど、知らなかったことも多く、調べているうちにすっかりハマってしまった。
若すぎて1987年の事件をご存知ない方にも、忙しすぎて30年後の
金賢姫をご存知ない方にも紹介したい内容!
Contents
大韓航空爆破事件
1987年11月28日、大韓航空の旅客機が、偽造された日本国旅券を使い日本人になりすました北朝鮮の工作員によって、飛行中に爆破され、乗客・乗員115人全員が死亡した。
このテロ事件を実行した北朝鮮の元秘密工作員で元死刑囚が、当時25歳、現在57歳の金 賢姫(キム・ヒョンヒ、韓国語: 김현희, 1962年1月27日 – )である。
金賢姫(キム・ヒョンヒ)
事件までの金賢姫
北朝鮮で官僚の娘として生まれ、4歳まで海外で過ごす。母は元韓国領土出身なため、北朝鮮人と韓国人のハーフ。
平壌外国語大学日本語科に在籍中に北朝鮮の工作員としてスカウトされ、日本における謀略活動のための訓練をされた。
大韓航空爆破事件と金賢姫
「88(パルパル)」(ソウルオリンピック)を妨害するために、金勝一と共に韓国の飛行機を落とす任務を与えられた金賢姫は、この任務を実行するにあたり、北朝鮮で「李恩恵」と呼ばれる女性(日本から拉致された田口八重子とみられている)から日本語教育や日本文化の教育を受け、「蜂谷(はちや)真由美」という名の日本人になりすました。
日本語教育の前には韓国化教育、後には中国人化教育も受けていて、日本語だけでなく中国語も堪能。
日本人親子になりすました金賢姫と金勝一は、バクダッドで搭乗した大韓航空858便の機内に爆発物を置いて、経由地のアブダビ空港で降機。アブダビからバンコクを経由してソウルまで行く予定だった大韓航空858便だが、バンコク国際空港に到着する前に旅客機内で爆弾が炸裂し、機体は空中分解、乗客・乗員115人全員が死亡した。
大韓航空機爆破後の金賢姫
実行犯二人は、アブダビからバーレーン国際空港に移動し、ローマ行きの飛行機に乗り換えて出国しようとしていたところで捕まる。
「蜂谷 真一(はちや しんいち)」という名の日本人になりすましていた、共犯の金勝一(キム・スンイル、김승일、当時59歳)の方は煙草を吸うふりをして、その場であらかじめ用意していたカプセル入り薬物で服毒自殺したが、同じく自殺を計った金賢姫の方は、一命を取りとめ、3日後に意識を取り戻した。
具体的には、マールボロに隠された青酸系毒薬のアンプルを、警察官から奪い取り自殺を図ったが、バーレーンの警察官が飛びかかり、直ちに吐き出させた為、完全に噛み砕けず青酸ガスで気を失って倒れただけに留まった。
事件後、金賢姫は、大韓民国国家安全企画部(現・大韓民国国家情報院)に引き渡され、捜査官に尋問される際も、日本に住んでいた中国人であるとして、日本語や中国語で返答して供述を拒んでいた。
連日繰り返される綿密な事情聴取の中で、日本人や中国人であるとする主張の数々の矛盾点を指摘された上、「日本に住んでいた時に使っていたテレビのメーカーは?」という質問に、日本や中国出身者ならば答えないはずの北朝鮮ブランド「チンダルレ」と答えて、捜査員に見破られる。
また女性捜査員と風呂での入浴中に、熱湯をかけられる不意打ちを喰らい、咄嗟に出た朝鮮語により、結局は隠し切れずに自白した。
捜査員に夜のソウル市街へ連れ出された際、北朝鮮で受けた説明とは全く異なる繁栄ぶりを見て、自分が洗脳されていたことに気づいたことも自白を決意するきっかけとなった。
金賢姫のその後
1997年、ボディーガードだった元国家安全企画部の部員の男性と結婚。ソウル在住、二児の母(2017年のTBS放映時、長男中学3年生、長女中学1年生)。
TBSの金賢姫、独占インタビュー(2017)
2017年4月、TBSの『テレビ史を揺るがせた100の重大ニュース』で「大韓航空機爆破事件 30年目の真相」が放送されている。
TBSの記者と北緯38度線に立つ金賢姫の姿と現在の様子がわかる動画を見つけた。(9分弱)
事件のとき25歳だった金賢姫が、このインタビュー時には53歳。両親のことを聞かれて、「もう亡くなっているだろう」と淡々と語っている。
金賢姫は、死刑判決の翌年1990年に韓国大統領・盧泰愚によって特赦されたが、その後、外交官だった実父を含む家族は北朝鮮で強制収容所に収容されている。
両親の話題に対してどんなに複雑な気持ちだったかも想像するにあまりあるが、日本のインタビュアーが、自分の子供たちには事件のことをなんと説明するのかと再々詰め寄っていたのも、ちょっとどうかと思った。
忌野清志郎が替え歌にしていた金賢姫
RCサクセションが、この事件を題材にして歌っていた。
1988年発表当時、発禁になった問題のアルバム「COVERS」に収録されている『シークレット・エージェント・マン(金賢姫)』で、坂本冬美もゲスト参加。ジョニー・リバースが歌った「秘密諜報員ジョン・ドレイク」のテーマソングのカバー。
冒頭に、金賢姫の記者会見の音声の一部が収録されているほか、ミュージックビデオの背景で、今も脳裏に焼き付いている当時の事件の様子が流れる。動画の最後には、今は亡き忌野清志郎直筆の2008年のメッセージも。
おわりに
才色兼備のうら若き女子大生だった金賢姫が、その秀でた性質によって北朝鮮による国家犯罪の実行員として白羽の矢を当てられ、これほど過酷な運命を背負わされたこの事件は、当時、ミーハー女子大生だったわたしにはあまりにも衝撃的だった。
金賢姫の本「いま、女として」が出版されたときには、すぐに買って読んだ。今も実家の本棚にあるこの本、もう一度、読んでみたい。
おまけ:スパイを演じきることの難しさ
上で、日本で生活していたと言う割には、日本のテレビのブランドを知らなかったことや、熱湯をかけられてとっさに出た言葉が、母国語の朝鮮語だったことを書いたが、金賢姫は、他にもスパイとしては重大なミスを犯していた。
バーレーン国際空港で、出国できなかった理由は、金賢姫の持っていた日本のパスポートが偽造であることが発覚したからなのだが、それが発覚した理由がそのミスに関わる。
当時、日本国政府当局は「中東を拠点とする日本人による反韓テロ事件」を懸念していたため、在バーレーン日本大使館が入国記録を調べていたところ、「蜂谷真由美」の航空券の英文の「姓」が抜けていた。
日本では姓を名乗る事が法律で定められているため違和感を覚え、女の旅券番号を日本国外務省に照会したところ、実在する男性に交付されたパスポートと同一であることが判明、偽造であることが確認され、日本大使館員がバーレーンの警察官とともに駆け付け、蜂谷真由美の出国を押し留めた。
ここからは、私見になるが、法律で定められなくても、日本では、ふつう姓を名乗るが、朝鮮半島では、姓よりも名前の方が大切なのだろう。金・李・朴の三大姓だけで国民の45%を占める韓国の場合、5人にひとりが「金」姓なので、姓だけ名乗ったり呼びかけたりしても、個人を特定できない。(日本では、姓の御三家、「佐藤」、「鈴木」、「高橋」の、3つの姓の合計でもやっと全体の約4%。)
余談だが、わたしは日本でとても珍しい姓を持っているのに、韓国にいたとき、いつもファーストネームまでフルネームで呼ばれるので不思議な感覚だった。
とにかく、自分を偽ることは、難しくて苦しい。どんなに周到になりすましてもボロは出るものだ。このコラムは、「ペルソナ」のコラムを書いていて金賢姫のことを思い出して書いた。
参考:「ペルソナの罠」
北朝鮮は現在に至るまで事件の関与を否定し、韓国による自作自演を主張している。
冒頭の写真:Steve Fitzgerald