ユングの高弟M.L. フォンフランツが1963年にスイスのユング研究所で行った講義の記録より、火の象徴にまつわる部分を抜粋。(1,500文字)
浄化と変容の象徴としての火
火は浄化と変容の性質をもつため、多くの宗教的儀式に用いられる。たとえばおとぎ話では、人間が被っていた動物の皮が焼かれるモチーフがよく出てくるが、それは変容の儀式に関わっているからだと解釈できる。
錬金術における火
錬金術では、火は表面的なものを焼きつくすために使われる。その結果、破壊されない核だけが残るため、錬金術師はその材料のほとんどをまず燃やして、破壊されうるものは破壊し、火に耐えうるものが不死性──破壊を免れる堅固な核──の象徴とみなされる。このように、生き残るに値するものと破壊されるべきものとを、いわば審判するという意味で、グノーシス派の経典では火は偉大な審判者と呼ばれている。
心理学的意味では火は情緒的な反応や情熱
情緒的な熱なしには、どのような発展もなく、意識のより高みに達せられない。
「黙示録」に神の「あなたはなまぬるくて熱くも冷たくもないから、私はあなたを口から吐き出します」という言葉がある(黙示録III-16)のはその意味である。
もしクライエントが分析に対して情熱をもたず、苦しんでいなかったら──もし絶望や憎しみや葛藤や悩みやなんでもそういったものの火がなければ──大したことは布置されず、いつまでも「だらだらした」分析が続く、と考えてほぼ間違いありません。
M.L. フォンフランツ p.128 – 129
だから火は、たとえそれが破壊的な種類のもの──葛藤、憎悪、嫉妬その他の情感──であってさえ成熟のスピードを早め、「審判者」として物事を明らかにします。
火をもつ人は面倒なことにはまりこみます。しかし少なくとも、何かをしようとし絶望に陥ります。火が多ければ多いほど、情緒的爆発、あらゆる種類の災いと悪行の破壊的効果の危険は大きいのです。しかし同時に、それがプロセスを進ませ続けるものなのです。
もし火が消えれば、あらゆるものが失われます。それが、決して火を消えるのに任せてはならない、と錬金術師たちのつねに言っていた理由です。
火を消えるのに任せる怠け者は、失敗するだけのことです。それは分析をちょっとかじってみるだけで、決して真剣に取り組もうとせぬ人です。そういう人には火がなく、したがって何事も起こりません。
大いなる破壊者としての火
町全体または自分の家の焼け落ちる夢は、一般に、既存の感情が全然コントロールできなくなったことを示す。情緒が自制を上回るときに、破壊的な火のモチーフが現れる。
書いてはいけない手紙を書いてしまうなど、昂奮した状態で、取り返しのつかないことをしてしまうことがある。感情に駆られて他人とのつながりをぶちこわしになるようなことをやってしまい、つながりを破壊し、永久にだめにしてしまうとき、それは突然解き放たれた情熱の火によるもので、そこには必ず文字通り火のような感情の破壊性がある。
火は消えてもだめ、燃えすぎてもだめ、焚き火や暖炉と同じで調整が難しいですね。
そもそも調整ができるものなんでしょうか。私の火は消えてしまった感じがするのですが、それは私が怠け者だからなんですか。ちょっと納得がいきません。
あなたの火は消えていないと思いますよ。
焚き火日記にも書きましたが、燃え尽きてすっかり灰になってしまったように見えても、棒でつつくと煙や火花が出てきます。だからタバコの吸い殻だって念の為に水に浸けたりします。
私は自分の火で破壊を招くことが恐ろしくて、動けません。
わたしが暮らしているヨーロッパでは、今でも、モミの木の生木のクリスマスツリーに、電飾ではなく本物のロウソクを飾る家庭が結構あります。実際にそのロウソクが原因で火事が起きたりもしていますが、だから本物のロウソクはやめようということにはなりません。
ウチは毎年、プラスチックのツリーに電飾ですが。
※冒頭の写真は、毎年4月の終わりにスウェーデンの各地で催される火祭りより。冬と春の境を祝う意味をもつ。
引用:M.L. フォンフランツ「おとぎ話の心理学」(氏原訳、創元社1979、原本は1970)p.128 – 130