わたしたちの感情や行動は、客観的な現実よりも「こころの現実」に支配されている。先日、自分がそれに振り回されて経験した妄想/思い込み騒動記。
「こころの現実(サイキック・リアリティ psychic reality)」は、ユングにとってもフロイトにとっても、鍵となる重要な概念にして、ふたりの捉え方には大きな違いがあったので、それについてもまとめた。(2,500文字)
こころの現実とは
たとえば自分のパートナーが浮気していたとする。その事実は、自分が知らない間はなんの影響も及ぼさない。しかし平和だったその「現実」は事実を知った瞬間に崩壊し、たとえば怒りや失望に満ちた新たな「現実」に塗り替えられる。
とーなん知らぬが仏、知れば仁王・・・


かと思えば、そんな事実を突きつけられたとしても、自分のパートナーに限ってそんなことはありえない、何かの間違いだと一笑に付すこともあるだろう。



この場合は、相手に対する絶大な信頼感の現れなのか、はたまた自分のプライドや自分の信じてきた世界を守るための現実否認なのかによって、意味合いが違ってきますね。
客観的な事実がどうであれ、それが知られていないなら存在しないのと同じであり、客観的な事実がどうであれ、自分の感情や反応は、自分がそれをどう捉えるか次第で変わる。
つまり現実とは自分が信じている世界で、自分の気持ちや行動、日常のすべてが、自分が信じていることによって支配されているといえる。
個人的な体験談:父親が”死んでいた”12時間
先日、自分が「こころの現実」に振り回される体験をして、興味深かったことがある。
不安になりやすいクライエントさんに話したところ、「とてもよくわかる、でも他人の話なら笑える!」とのことだったので、公開したい。
87歳の父親が実家で独り暮らしをしているので、毎日、1分電話をかけて生存確認をしているのだが、その日は電話に出なかった。携帯はずっと「電源が切れているか電波の届かないところにあります」状態で、固定電話を何度鳴らしても出ない。日本時間は夜の8時、父親が外出している可能性はなかった。
何かあったのではないかと心臓がドキドキしてきたが、そのうちつながるだろう、日本の朝までつながらなかったら、そのときまた考えようと思って心を落ち着けた。
しかし日本の深夜になってもつながらず、とうとう午前2時になった。こちらはまだ夕方だが、こちらの夜になるにつれてどんどん不安が膨らんだ。



それまでも心配していたとはいえ、自分が焦点を当てた瞬間に、最悪のシナリオが、「怖い現実」、唯一の現実になることを身をもって体験しました。
前日の夜、電話で話したとき、父は日本は急に寒くなった、外の水道管が凍ったら大変なことになるので、凍結防止の処置をしなくてはと言っていた。あれから外に出て、無理して作業して倒れて動けなくなって凍死したかもしれない。
そういえば、昨日、父が最後に「ありがとう」と言って電話を切った。父がそんな殊勝な言葉を発するなんて実に不自然だ。
やっぱり、死んだんだ!
動揺しながら、頭の片隅で、帰国便や葬儀の手配のシミュレーションまで始めていた。
周りに、「まさかー。きっとだいじょうぶだって。」とどんなに言われても、まったく聞く耳を持てなかった。他人事だと思って、そんな楽観的なことが言えるのだとしか思えなかった。
なぜ、日本の夜の8時、9時の時点で、近所の人に頼んで実家に偵察に行ってもらわなかったのかと後悔もした。こんな時間になってしまっては頼むこともできないが、もしかするとあのときにはまだ半死の状態だったかもしれないのに。
日曜日だったので、朝8時(こちらの深夜零時)になるまで待つべきだと思ったが、朝7時(こちらの23時)に耐え切れなくなり、無礼を承知で実家の近所の人に電話することにした。
そしてここで、これは、思い浮かんだ人に気軽に頼めることではないと気づいた。
死体を見ても動じないような人にお願いしなければいけない。
携帯の電源が切れているということは、強盗に殺されているかもしれない。その場合、実家は血まみれになっているかもしれないのだ。そんな惨状を目撃して、ずっと脳裏から離れないようなことになってしまっては申し訳ないし、第一発見者として警察に事情徴収を受けるようなことになっても迷惑がかかる。
結局、早朝だというのに電話に出てくれた父の民生委員をやってもらっている頼れるタイプの男性にお願いして、自宅まで行ってもらった。いよいよ現実に直面する瞬間が来て、連絡を待ちながら緊張も最高潮に達した。
呼び鈴を押すと、パジャマ姿の父が普通に出てきたそうだ。
携帯電話は壊れ、固定電話は、いつもは開けている寝室と居間の境のドアをたまたま閉めていたので、一晩中、聞こえなかったらしい。
ちゃんちゃん。


フロイトとユングの「心的現実」の違い
フロイトの「心的現実」
フロイトが提唱し、精神分析の用語として使われる心理的現実(psychic reality)は、本人が信じている体験や幻想が、客観的な事実かどうかに関わらず、無意識に抑圧され症状を生む力を持つ、という意味で用いられた概念である。
フロイトは当初、神経症を実際の性的誘惑によるものと考えたが、後に患者の内的空想が同等の力を持つと修正し、心的現実を精神分析の基盤に据えた。
無意識の心的現実が自我と衝突すると、防衛機制が働き症状が生じる。例えば抑圧された幻想が、ヒステリーや強迫行為として現れる。フロイトにとって、精神分析はこれを意識化し解消する作業であり、不適切な心的現実を適切なものへ修正することが、精神分析療法の核心といえる。
(AI解説を抜粋してとーなんがまとめた内容)
ユングの「心的現実」
こころの現実は、その人にとっての実在として、もしくは現実感を迫る力をもつものとして受け取られるすべてを包括する。ユングによると、われわれは人生とそのできごとを、歴史的真実ではなく、物語的真実として経験する(個人の神話)。
「ユング心理学辞典」より
妄想は、心理学的には現実的でも、客観的妥当性はまったくない。にもかかわらず、このことは、何も存在しないとか、真実ではないということを意味しない。
「ユング心理学辞典」より
フロイトが想定した「こころの現実」は、症状を生み出す要因であり、客観的現実と対比されるものだったが、ユングは現実とファンタジーを区別することはせず、イメージによって構成されるこころの現実こそ、われわれが経験できる唯一の現実だと考えた。



