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意味のある苦痛は味わうべきか、避けてもいいのか

2017年7月1日に別ブログで公開した内容をこちらに移動。

人が経験する激しい痛みとして知られているものに、陣痛がある。「絶叫せずにはいられない、想像を越えた痛み」、その想像できないことを想像しながら、初産妊婦たちはこれを恐れるが、昨今、この痛みを伴わない出産も増えている。

出産の痛みが神に与えられたものなら、それは経験すべきなのか、それとも現代医学の力を借りて避けてもいいのかという問いかけは、人生のあらゆる苦痛や苦悩をどう捉え、それにどう対処するかという話にもつながってくる。

陣痛には意味がある

母体や胎児の事情で帝王切開せざるをえないというケースは昔からあったが、最近のアメリカなどでは、病院側にとっても、キャリアウーマンの母親にとっても都合がいいからという理由で、前々から子供の誕生日を決めて、予定の日に帝王切開で出産するのがごく普通になっていると聞いた。

「無痛分娩」もよく耳にするようになった。麻酔の中でも高度な技術を要する脊椎麻酔で、一歩間違えると危ないやつだが、この麻酔によってうまい具合に下半身の痛みだけがなくなる。上半身に属する意識はしっかりしているし、いきむこともできるので、痛みがないということ以外は普通に出産ができる。

「今時の麻酔科医の妻は、ほとんどが無痛分娩を選択します。意味のない苦痛は味わわなくてすむような技術が発達しているのですから。」

と麻酔科のドクターが誇らしげに話した、という記述がいただきものの本、「枯れて死ぬ仕組み」を知れば心穏やかに生きられる—やみくもに死を恐れず“いい人生”を送る方法 (KAWADE夢新書)にあった。

僧医という肩書きの著者が、妊婦の妻にこれを話したところ、妻は、「陣痛は意味のない痛みではないと思うので、医学的に必要でなければ無痛分娩は選択しない。」と言ったそうで、著者もその妻に同意しながら、「あらたな命の誕生という崇高な営みにともなう痛み」として、陣痛には意味があると言っている。

意味がわかり、さらにそれがいつまで続くかわかっていれば苦痛に耐えることは可能で、そのことは出産に限らずどんな苦難についても当てはまることだろうと続く。

意味の見出せない苦しみを苦しむときが、一番つらいものです。少しでもその意味がわかれば、逆境を耐え抜く力も出てきます。

また、あとどのくらい頑張ればこの暗いトンネルから抜け出せるのか全くわからないときが、一番つらいものです。少しでも先に光がちらつけば、その出口めざして頑張る勇気が湧いてきます。

ふむふむ。いろいろな連想が湧いてくる。

風邪薬をのむ派vsのまない派

まず、「風邪で発熱」という苦痛を考えてみよう。

風邪をひくタイミングは、身体的・精神的に無理をした時だったり、あるいは緊張の糸が緩んだ時だったりして、「意味」を感じられることが多いように思える。

そして、風邪はふつうはひいたら治るものなので、終わりも見える。つまり、風邪による発熱という苦痛は「意味があり、そのうち終わる」カテゴリーに入る。

日本では風邪をひいたら風邪薬をのむ人が多いが、ヨーロッパではのまない人も多い。「風邪薬をのまない」派は、体温を上げ、発熱パワーを出しながら、一生懸命、風邪菌と戦っている身体の邪魔をしないで、正義が勝って戦いが終わるまでじっと我慢して待つ。風邪ごときで薬をのみ、風邪菌とともに、健康な免疫システムまで破壊するなんてもってのほかだという考え方。しかし、「風邪薬をのまない」派が度を過ぎて、現代医学一切お断りと言いだすと、カルトじみてきたりもするので、なにごともほどほどがよい。

一方、「風邪薬をのむ」派は、発熱でウンウン唸っている状態を「意味のない、味わわなくてすむ苦痛」と捉え、解熱剤の力技を使って抑え込むことに躊躇しない。「風邪は万病の元」と慎重に構え、「早めに根治」のために、風邪薬を服用することもあるだろうが、薬で「治って」いるのか、鼻水ブロックや咳止めのように、とりあえず症状が押さえつけられているだけにすぎないのか、その議論も分かれるところである。

ガンの治療ならどうするか

では、癌のように、治らない可能性も高い病はどうだろうか。出口は見えないし、意味を見出すことも難しい。

風邪ぐらいなら、西洋薬をのもうが漢方薬をのもうが、自然治癒力に任せようが、たいていそのうち治るのだから、なんでもいいといえばいいが、癌の治療や対処法の選択となると、そうはいかない。

現代医学と代替医療の激しい攻防が繰り広げられる分野で、生死がかかっている。抗がん治療をやめたら、自然治癒力で奇跡的に回復したということもあれば、「もっと早く現代医学の力を借りていれば・・・。」ということもあり、難しい、究極の選択を迫られることもしばしば。普段の主義主張にこだわっている場合でもないだろう。

私はまだそんな状況を経験したことがなく、自分や家族が致命的な病の宣告を受けたとき、一体、自分がどうなるのか、どうするのか想像もつかない。今のところは、終わりの見えない苦痛や苦悩の中でも、「意味」を見出すことはできると信じているので、その信念が絵空事に過ぎないのか、実際にはどう揺らぐのか、その時、自分で確認しようと思っている。

精神的な”病”はどうか

重い精神病は別として、うつ症状やその他の神経症による苦痛はどうだろうか。

ほとんどの場合、一見すると、症状による苦痛の原因はもちろん意味もわからず、症状がいつかは消滅するという光も見えない。

ここまでをまとめてみよう。

陣痛という苦痛には意味と終わりがある。経験するかしないかは自分で決められるが、経験することに大きな意味があると思っている人も少なくない。

風邪による発熱の苦痛にも意味と終わりがあるが、あえて発熱の意味を味わおうとする人はあまりいない。

癌のような深刻な病には終わりがない。意味はあるはず、あってほしい。

そして、精神的な症状による苦痛には、終わりは見えなくてもある。意味も見えにくいかもしれないが、こちらに関しては「必ず」ある。・・・というのが私の考えである。

対処法はというと、うつや神経症を「治す」ための薬はなく、薬には、一時的なブロック機能や症状緩和の機能しかない。

陣痛や発熱の苦痛は、現代医学の力で回避できる。

癌の苦痛は、現代医学の力でも今のところ回避できない。

精神的な苦痛は、現代医学の力では、将来も回避できないだろうが、一時的・部分的には回避できる。

したがって、睡眠薬も含め、薬をのむかどうかは本人次第。薬には頼れない、薬や医者は救ってくれないということを念頭に置いた上で、「薬を利用」する選択はあってもいいのではないだろうか。

結論。意味のある苦痛は、味わった方がいいのかもしれないが、味わう「べき」とは思わなくていい! それは、苦痛の意味を軽んじていることにはならないはず・・・。

おまけ:私の場合

薬を利用する選択肢があってもいいんじゃないのという私は、無痛分娩をしたクチだ。

出産したのはスイスの湖畔の美しい産院。どこかで見た水中出産に憧れて、水槽つきの部屋を予約していた。

息子が生まれた日の明け方、寝ているときに破水したかと思うと、噂にきいていた陣痛が始まった。痛すぎて、産院に向かう車の中、座ることもできず、逆向きになってシートの頭部にしがみつき、ほうほうのていで産院到着。叫ぶ力も出ない種類の痛みだった。(もし、あのまま痛い出産をしていても、絶叫していないことは確か。)

医療スタッフに迎えられると、開口一番「いちばん痛くない方法でお願いします!」ときっぱり頼んだ。無痛分娩だと水中出産できなくなりますよ、と言われて、一瞬、がっかりはしたが、迷ったのは3秒足らず。「水中出産できなくてもいいです。とにかく、痛くない方法で!」と再度頼んだ。

それから、「もし万が一のことがあっても・・・」という書類にサインして、麻酔薬を背中に打たれ、瞬時に痛みからすっかり解放されたときには、天にも昇る気持ちで、一安心。

「陣痛には意味があると思うので、医学的に必要でないかぎり無痛分娩は選択しないわ。」と、きっぱり言ったという前述の僧医の妻とはえらい違いだ。

出産後、アメリカ人の精神分析家が、「生命誕生の聖なる瞬間に神がどのような痛みを人間にお与えになったのか、ぜひ知りたかった」から自分は無痛分娩を選択しなかったと言っていたのを聞いたときには、もしかしてもったいないことした?とも思ったけど、神が私をこんな軟弱者の人間に作ったのだから仕方ないと開き直っておこう。

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