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ヘルマン・ヘッセを読む2021の夏

子育ての話を含む雑文+おまけ「紙の本の意義」、合計3,000文字。(2021.7.24.加筆更新)

積ん読ヘルマン・ヘッセを乱読中

仕事中にヘルマン・ヘッセの小説の話が出てきたのがきっかけで、20年来の積ん読図書を休暇先に持ってきて乱読している。中古本を除くと、これまで開いた形跡のない新品ばかりだった。

読みもしないのになんでこんなにヘッセの本を持っていたのかというと、スイスのユング研究所で学んでいる間、ゲーテやヘッセの名前がよく出てきたので、必読本だと思って邦訳版を買い集めていたのだ。

しかし読書の必要に迫られることはないまま、研究所でのトレーニングとそのあとは高齢育児でヘッセの読書どころではなく、あっと言う間に15年ほど過ぎた。息子が小学校高学年になった数年前にようやく読書をする余裕ができたときには、ヘッセなんかには手が伸びなかった。ミーハー志向のわたしがこの手のやや高尚ともいえる本を読むためには、独特のマインドセットが必要である。

読まないまま月日が流れた新潮文庫は文字のサイズが老眼にきつくなってきていたので、ギリギリでなんとか読める今、きっかけを与えてくれたクライエントさんに感謝している。

読み始めてすぐユングの思想に合致する表現が頻繁に出てくることに気づき、なるほど、だからユング研究所の講義中に耳にすることも多かったのかと今さら納得した。
別記事に記載したヘッセとユングの密接なつながりも今さら知った。)

北ヨーロッパでの生活が長くなったので、スイスを舞台にしたヘッセの物語の背景や情景がありありと目に浮かび、文化的に理解できることも多かった。日本の田舎の中学生だったときに夏休みの課題図書で「車輪の下」を読んだときとは臨場感がまるで違う。40年前にはまったく形だけの無意味な読書をした気がするが、書名や作家の名前を知っていることだけでも一般教養になるのかもしれない。

少ないサンプル数ですが、スウェーデン人は大学を出た人(大学に行く人自体が日本ほど多くない。)しかヘッセを知りませんでした。英語を教えているアメリカ人の友人は、ヘッセの名前なんて聞いたこともないそうです。

「新潮文庫の100冊」に感謝!(よろしければ別記事もお読みください。)

ヘッセの作品が、少年期や、少年が青年になっていく過程を描いているものが多いのもヘッセの小説を次から次へと読む気になった理由だった。

ヘッセ自身の少年時代の体験が語られているそれらの物語を、もうすぐ14歳になる息子に時折重ね、まだあどけなさの残っている息子が青年になる近い未来に思いを馳せてセンチメンタルな気分になったりしながら読んだ。

2021年今年の夏のスウェーデンは、とりわけすばらしい天気が1ヶ月以上続いている。栗の木の下で、りんごやナシの木の木陰で、ハンモックの上で、サクランボや野生のベリーをつまみながら、野生のミントやクローバーの花々にクマンバチや色とりどりの蝶々が群がっているのを見ながら、小鳥のさえずりや虫の音、風の音を聴きながら、遠くに見える野生の鹿の群れに目をやりながら、時には野うさぎがまぎれこんでくる庭で、来る日も来る日もヘッセをむさぼり読んだ。(いつものように、すでに片っ端から忘れかけているので、このあと読書メモを書いておくつもり。)

ヘッセは、厭世的な高校生がつまらない日常から逃避するのに格好の本で、共感と憧れをもって読みふけった本でした。

息子が学校で作ってきた巣箱
サクランボは熟れすぎると鳥に食べられる

スウェーデンの14歳男子の実際

下の写真は、息子のスウェーデン人の友達がウチに泊まりに来たときに連れてきて、いっしょに寝ていたぬいぐるみ。ブーとウサたんというニュアンスのスウェーデン語の名前がついていた。こちらの子供、とくに男の子たちは日本人の子供より精神年齢が幼い印象がある。身体の成長の方は早く、この子も14歳でもう身長は180センチある。

■関連記事:「親になって知ったことは、親のありがたみより子のありがたみだった」(2014)

むさぼり読むといえば思い出す

「むさぼり読む」といえば、スイスに住んで間もない頃、日本人経営の美容院で、置いてあった日本の女性週刊誌を一心不乱に夢中になってむさぼり読んでいたら「わーお客さん、読みあさってますねぇ!!」と大げさに感嘆しながら言われたことが20年経っても忘れられません。

なんか違和感があるなと考えていて読み”ふけって”の間違いだと気付き、外国生活が長くなると、日本語がこんな風にヘンになっていくのか…と複雑な気分になったのです。あれから約20年、わたしはそれほど日本語を忘れていない代わりに、外国語がさっぱり上達していません。

わたしもこちらに住んでいる日本人と会話していてこの類の言葉に、よく遭遇しますよ。「モオさん、年の割りにしてはお肌が綺麗ですね。」とお褒め頂いたり・・・。

おまけ:紙の本の意義

休暇先に本を持ってくるのは重くて大変なので、こういうときは電子書籍が便利だと思う。積ん読本が無数にあるし、そのとき何を読みたい気分になるかわからないので、あれもこれもと詰めているうちに、すごい量になってしまう。電子書籍は文字のサイズが変えられるので老眼にも嬉しい。紙の本の良さもありそうだが、考えても出てこないし、・・・と思ってググってみたら、求めていた格好の記事を見つけた。「紙の本は脳本来の特性に適っており、電子書籍ではまだまだ肩代わりできない。」ということで、言語脳科学者による以下のような説明があった。

●【電子書籍との比較ではないが】脳を創るためには、「適度に少ない情報の入力」が必要。映像>音声>文字のみの順で情報量が少なく、少ないほど脳は想像力を駆使するため活性化される。

●紙の本で読書をする場合、脳は単に書かれている内容だけを読み取っているわけではなく、例えば、本の厚みや質感や装丁、本文のレイアウト、書体、この本は初版かそうではないのか、という本の内容とは直接関係のない様々な情報を無意識のうちに記憶する。また紙の本では視覚的・触覚的に全体のどのあたりを読んでいるかを把握しながら読む量的な感覚も電子書籍では難しく、ページをめくるという感覚自体も、全く異質なものになる。

●脳には「複雑を好む」という不思議な特質があり、脳の働きを軽視した安易な単純化は、伝統的な出版文化と逆行することにもなる。

例:『坊つちやん』では、夏目漱石は「子供」と「小供」を明確に使い分けており、「子供」は親に対しての子、「小供」は小さかった時分という意味。漱石がどういう意図でこの言葉を使い分けたのかを想像してみながら読み取ることは、私たちの脳を育てることと無関係ではない。

★詳しくは、キャッチフレーズ「人間学を探究して四十三年」の到知出版社(ちち出版社というネーミングも印象的。)の記事本文参照。
「脳は紙の本でこそ鍛えられる。言語脳科学で明らかになった読書の知られざる効能」

電子書籍化されている本の紙版は、無用の長物のような気さえしていましたが、これを読んでなんとなく安心しました。老眼が進んでも聞く読書ができる時代になったのは嬉しいですが!

私は紙の本派です。どうも老眼になった人はぶつぶつ文句を言い過ぎる。老眼鏡を使えばそれで問題解決なんだから、老眼鏡を使えばよろしい。
(続きはこちらへ)

出版文化だけではなく全ての創造的活動に逆行するのではないでしょうか?
スマホやゲームがスマホ脳、ゲーム脳を作るとは安易に思いませんが、視覚を含む情報過多のせいで発想力が乏しくなる傾向は間違いなくあると思います。

紙の本の話、面白かったです。特にアハー!と思ったのは、「情報量が少ないほど脳は想像力を駆使する」です。

人との関わりでも似たような事が起きているなと思いました。
想像力を働かせたとき、言葉にはできない何かで繋がりを感じるんだなと思います。今は昔に比べて便利になりましたが、その分、想像力を働かせる機会が少なくなりました(まるで昔を知っているかのようですが…笑)。

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