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出光興産創業者佐三の娘、出光真子とユング心理学:女であることの桎梏

(最終更新日2020/11/16、全4ページ8,700文字)

百田尚樹の「海賊とよばれた男」(2012)のモデルとして知られる出光興産の創業者出光佐三には一男四女合わせて5人の子供がいるが、映像作家である末っ子の出光真子(1940-)がユング心理学の影響を受けた作品を多数残していることを知り、個人史や作品についてまとめた。出光真子氏の実写映像も掲載。

出光真子の映像ほど、心を鋭利に刺し貫く刃をもった作品を知らない。それはユング心理学を学び、20年間も夢の分析を自ら受けてきた「心の達人」だからかもしれない。

“Culture Power” 岡部あおみ

はじめに

出光佐三の娘、出光真子(1940-)は、上流家庭の子女として周囲や時代に期待されていた”女らしい”人生を拒み、自分自身が納得の行く生き方を模索、追求した。

今でも男の子と女の子とを区別して育てる家庭は多いし、日本やアジア諸国では社会での男女差別も歴然と残っている。出光真子の生き方や作品にこめられた主題は、女であることの桎梏からは逃れられない現代女性の自己実現のテーマに示唆を与えてくれるものである。

実際、作品は女性解放運動の文脈で取り上げられることが多く、ウーマン・リブ50周年を記念して2020年11月14日と15日の2日間に開催される第9回シニア女性映画祭・大阪2020では出光真子の作品も上映される。

一方、きょうだいと自分を比べながら成長していくことや、敷かれたレールに沿わず親や周囲に期待された生き方とは違う道を選択をすること、どんなに物質的に恵まれていても満たされない心といった人生における葛藤は、男性にも無縁ではないだろう。

出光真子の個人史

出光佐三の末っ子として生誕

出光真子は1940年、石油会社出光興産の創業者、出光佐三の末っ子(第5子)として東京で生まれている。

兄と三人の姉はこのような面々である。
●出光佐三の長子である兄の出光昭介は、真子より15歳年上で出光興産第5代社長。

●長姉の出光孝子は画家。美術評論家の東野芳明(1930 – 2005)と結婚し(のちに離婚)、20年余りパリで画家を志したが、生前は世に出ることなく体調を崩して帰国している。(本稿で後述する「清子の場合」のモデル。)

●次姉の出光哥代子は東京女子大を卒業して松本家に嫁ぐ。

●年の近い姉、出光純子(1939-2019)は、フィギュアスケート選手。アイスダンスパートナーの別所敬之(ひろし)と結婚。

出光佐三の5人の子どもを産んだ真子の母靖子は、佐三の二番目の妻で、佐三は、最初の妻には子どもができなかったために離婚して再婚した。出光真子の自伝的小説によると、靖子は結婚前に「わたしは子どもが大嫌いです。」と言っており、子どもの世話はすべて女中たちに任された。三女・四女(真子)は同じ女中が世話したが、あとのきょうだいにはそれぞれひとりづつ別の女中がいた。

全員、健康に育った。身体的にという意味では。(「身体的」に傍点)

出光真子「ホワイトエレファント」より

偉大な父をもつ娘の葛藤

出光 佐三(いでみつ さぞう、1885 – 1981年、95歳没):福岡県出身。明治から戦後にかけての日本の実業家・石油エンジニア・海事実業家。石油元売会社出光興産の創業者。貴族院多額納税者議員。

出光佐三(ウィキペディアより)

出光佐三をモデルとした百田尚樹の歴史経済小説「海賊とよばれた男」は、本屋大賞を受賞(2013)した他、コミックスや映画にもなっている。

娘・真子は「父・佐三は徹底した儒教的・家父長的男女観を抱いていて妻と娘4人を「女こども」として軽蔑し、その自立を否定し人格的に抑圧した」と述べている。

ウィキペディアより

「海賊とよばれた男」を読んで感動したことをきっかけに、出光佐三さんに興味を持ち、出光真子さんの「ホワイトエレファント」も読みました。出光佐三さんは、日本にとって英雄ともいえる素晴らしい人物ですが、必ずしも素晴らしい父親であったわけではないというのは衝撃でした。
しかし「海賊と呼ばれた男」は良い本ながら、できすぎた感じもあったので、娘さんの本を読んで少し納得できた気もします。

(アマゾンレビューより)

父の反対を押し切って結婚

お茶の水女子大学付属小・中・高から早稲田大学第一文学部に進学した出光真子は、”大富豪ではあったが家父長制の桎梏がきつかった「家」から抜け出すために”、卒業後の1962年に渡米、ニューヨークへ留学する。

大学卒業を前に、咲子は進路に迷っていた。このまま日本にとどまると、姉たちのように父の望む結婚を選択してしまうだろう自分が恐ろしかった。
(中略)長女は芸術の世界で成功し父の事業に文化的貢献をするという道を進み、次女は結婚で果たし、三女も同じように結婚を選んだ。そして、咲子の番になった。しかし咲子のこころの内には、海辺に砕ける高波のように荒く、結婚を忌避するものがあった。迷い混乱しているところへ、アメリカから帰国した人が、「向こうでは子どもは大学へ入学すると同時に家族の元を離れるのがふつうです。渡米なさい。自由で素晴らしいですよ。そこで、またゆっくりと考えればいいのです」と決めてくれた。
 父親が納得しそうな口実をあれこれと考えた末、・・・(後略)

出光真子「ホワイトエレファント」より

1966年、26歳のとき父の反対を押し切って当時43歳のアメリカ人の画家サム・フランシスと結婚、2児の母となる。(のちに離婚。)

サム・フランシス(Sam Francis, 1923 – 1994):20世紀のアメリカの画家。東洋古美術のコレクターとして知られた出光佐三は、フランシスのコレクターとしても知られ(パトロンでもあった。)、現在も東京の出光美術館には多くの作品が収蔵される。

フランシスは71歳に死去するまでに5回結婚し、4人の子供がいる。最初の結婚は24歳のとき(1947 – 1952)で相手は高校の時のガールフレンド、次が32歳のとき(1955 – 1958)にカリフォルニアの画家と結婚、そして36歳で日本画家の横井照子(35歳)と結婚(1959 – )して娘ひとり(カヨ)をもうけ、4番目の妻である出光真子(1965 – 1973)との間には息子がふたり(オサム、シンゴ)、最後の妻で画家のマーガレットとは日本で神道式の結婚式をあげ、1986年生まれの息子がいる。

出光真子と結婚した頃のSam Francis 1968

横井照子はスイス在住の洋画家。日本に個人美術館がある。
横井照子ひなげし美術館(岐阜県恵那市、2004年設立)
横井照子富士美術館(静岡県富士市、2008年設立)

「日本人にかえれ。」という名言を残した出光佐三は、皇室を篤く崇敬し、死去した際には昭和天皇が和歌を詠んだほどの人物。

そんな名門出光家のご令嬢が、今から50年以上も前に15歳以上も年の離れたバツ3子持ちのアメリカ人画家と結婚というのだから、父の逆鱗にふれて勘当されたというのも無理もない。もっとも、子供が誕生したことで勘当は解かれたそうだが。

アメリカでユング派の分析を受ける

アメリカ西海岸サンタモニカでのサム・フランシスとの結婚生活は、ヘンリー・ミラー、ホキ徳田(ジャズピアニストでヘンリー・ミラーの8人目の妻)、アナイス・ニン(フランス生まれの著作家、ヘンリー・ミラーの愛人であったこともある。)、イサム・ノグチ(日系アメリカ人芸術家)、ライ・クーダー(アメリカ人ミュージシャン)など著名な芸術家たちと親交のある華やかで刺激的なものだったようだ。

しかし出光真子は、子どもの面倒を見ているだけの生活に満足できず、”悩み深き妻であり、母親”だった。そしてこの頃、子どもの保育所の先生に勧められて、アメリカ人のユング派分析家と夢分析を始めている。

夢から象徴とか元型を読み取るんですが、最初の分析家の先生は「僕は日本の神話を知らないからどうしよう」なんて言ってましたね。

2009年出光真子インタビュー記事より)

映像制作を通して自らを解き放つ

ふたりの子供を育てながら、主婦であることにうんざりしていました。日常の果てしないくり返し。その背後で、もうひとりの自分が主婦である私を視ている。私は誰だろう!生きることとは何だろう!という問いかけを他の人とも分かちあいたかった。

(『主婦の一日』自作解説、『ビデオ・新たな世界−−− そのメディアの可能性』展カタログ、1992年、O美術館、52ぺ−ジより)

出光興産の創業者出光佐三の娘にして画家サム・フランシスの元妻、そして2人の息子の母。── 眩しい芸術家たちの群れ集うカリフォルニアの陽光の下での生活はしかし彼女の心の飢えを満たさなかった。やがて映像制作に出会い、自らを解き放つ旅が始まる。

「ホワット・ア・うーまんめいど ある映像作家の自伝 」(出光真子2003) より

1973年より東京在住。(サム・フランシスと離婚後、日本人商社マンと再婚したという情報も見つけたが、それ以上の詳しい情報は探せなかった。)

 

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