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子供の才能を見つけて伸ばす親:美空ひばりとその母──「一卵性母娘」の二人三脚

優れた天賦の才能を持っている人の中でも、世の中に見出されて有名になる人と見出されることなく無名のまま終わる人がいる。本人がどれだけ世間に自分の能力をアピールするかによってその差が生まれることは多く、とくに子供の場合、音楽やスポーツで天才と呼ばれて脚光を浴びる子供たちの背後には、それを後押しする熱心な親の存在がもれなくある。5歳の天才ピアニストが自然に誕生することはありえないのだから。

天才歌姫として名を馳せた美空ひばりもまた、母親の努力なくしては幼い頃から人に知られることはなかった。「一卵性母娘(おやこ)」(当サイト内コラム参照)という言葉は1990年代から流行しているが、この表現は、遡ること60年も昔の1960年代に、美空ひばりとその母親を指して使われていた。(1,700文字+おまけ400文字)

ウィキペディアを参考に、美空ひばりと母親の歴史をまとめます。

この母娘二人三脚の成功物語、わたしには痛々しくも感じられましたが、みなさんはどう思われるでしょうか。

美空ひばりと母

大スター美空ひばり誕生物語

●美空ひばり(本名、加藤和枝)は、横浜で魚屋を営む夫婦のもとに生まれた。妹と弟ふたりのいる4人きょうだいの長子だった。

●歌の好きな両親の影響を受け、幼い頃から歌謡曲や流行歌を歌っていた。

母・喜美枝はひばりの歌唱力に人を惹き付ける可能性を見出した。

●戦後間もない1945年、8歳のとき母の提案により「美空和枝」の名にし、初舞台を踏む。

●1946年、9歳のとき自信満々でNHK『素人のど自慢』に出場したが、まさかの予選落ち。

審査員は「うまいが子供らしくない」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で合格にすることはできないと告げた。

ウィキペディアより

●1947年、横浜で行われたのど自慢大会終了後、母・喜美枝は和枝を連れて審査員の古賀政男のもとに駆けつけ「どうか娘の歌を聴いてください!」と懇願し、和枝はアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌い、古賀に認められた。

●1948年、神戸松竹劇場への出演に際して、母・喜美枝は神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、それがきっかけでまだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりは横浜国際劇場公演に抜擢される。

ひばりは、当時のスター歌手笠置シヅ子の物真似(歌真似)が非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びるが、純粋に「かわいい」と見る層がいた一方、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている。

ウィキペディアより
「悲しき口笛」の美空ひばり(1949)

●1962年、小林旭と結婚するが2年で離婚。

母、喜美枝はこの結婚を快く思っていなかったようで、人生で一番不幸だったのは娘が小林と結婚したこと、人生で一番幸せだったのは小林と離婚したことだと後に公言して憚らなかったほどである。

ウィキペディアより

ひばりは離婚記者会見で、「芸を捨てることも母を捨てることもできなかった」と語った。

60年前につけられた「一卵性母娘」というニックネーム

●ひばりの離婚後、母・喜美枝はひばりを誰よりも巧みにプロデュースする存在となり、ふたりは二人三脚でスターへの階段を駆け上がる。ひばりは傍らに喜美枝を従えて精力的に活動し、当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられた。

●1981年、芸能生活35周年記念リサイタル後に母・喜美恵が68歳で死去した際には、火葬場で母の棺がかまどの中に入る際、ひばりは大きな叫び声をあげながら、本気で一緒にかまどの中に向かおうとした。

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おまけ:美空ひばりが可愛がった大原麗子も母親を支えにしていた

デビュー当時から美空ひばり(1937 – 1989, 52歳没)に公私共に妹のように可愛がられ、互いに「麗子」「お姉さん」と呼び合う仲だった大物女優の大原 麗子(1946 – 2009, 62歳没)も、生涯を通じて母親が心の支えだった。女優を目指したのも母に恩返しをして楽をさせたかったためだと言われている。

父には幼い頃から暴力をふるわれ、麗子8歳(小学2年生)の時に父の浮気が原因で両親が離婚。麗子は母に、弟は父に引き取られた。母子家庭で生活は豊かではなかったが、母は麗子をバレエ教室に通わせた。森進一との離婚後、憎んでいた父親の大原姓に戻りたくなかった麗子は、家庭裁判所を通じ、母方の姓に改姓している。

晩年まで母親のことを気にかけ、母親の介護もしていた麗子だが、母親より先に逝去している。

3歳年下の弟が生まれると母の愛情を独り占めしたくて母の母乳を吸い始めたので、母は止めさせるために乳首に唐辛子を塗ったが、それでも我慢して吸い続けたというエピソードも残っている。
(ウィキペディアより)

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