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山本周五郎「風鈴」を例に挙げた幸福論 by 武田邦彦

(2023/1/7 加筆更新、5,000文字)

武田邦彦氏の幸福論を教えてもらいYoutubeで探して聴いたら面白かった。動画内で紹介されていた山本周五郎の「風鈴」やアンデルセン童話についても調べて合わせてまとめた。

たくさんの中から適当に選んでひとつの動画を視聴しただけのせいか、ところどころ疑問を感じたところもありましたが、いろいろ考えるきっかけになると思います。

武田邦彦の幸せ4階建て理論

武田邦彦氏の「幸せ4階建て理論」は、幸せが4階建ての家のような構造になっていて、各階に違う幸せがあるというもので、1階から始まり、上層階に行くほど悟りの境地(武田氏はこんな表現は使っていないが。)に近づいていく。

武田氏はこの話をすでに何度もしているようで、わたしが観た動画は、「1階から4階までのイメージがよくわからないので、具的に説明してほしい」という視聴者の質問コーナーから始まっていた。

その質問に対する武田氏のコメント。

人は、自分の頭の程度に合わせた理解しかできないため、聴いている人の理解度に応じた理解がなされる。そのため武田氏は、上の階の説明は、言っても無駄なのであえてはぐらかす。

●とくに動画の視聴者は、武田氏のいう1階レベルの「不幸」な人が多い。(不幸なので、幸せというキーワードで検索して、この種の動画を見つける。)

●視聴者からの質問は1階レベルの内容がほとんどで、先日はじめて「3階の玄関口」に相当する質問を受けたが、これは極めて稀。

●イエスキリストや釈迦のような人が1階から4階について聞けばすぐ理解できるが、動画を聞いている人のほとんどが4階について聴いたところで、理解も納得もできない。

★4階についてわかった状態では、悩みがない。
つまり悩みがない状態について理解できれば、悩みはない。

「悩みがないのが悩み」だという人もいますが、それは4階の住人とはまた違いそうですね。

1階:お金や環境や人間関係に恵まれている幸福(自分中心)

●お金で買える幸福。
年収200万円の人と500万円の人と1,000万円の人がいれば、通常は、多い人の方が幸福。

お金による幸福を認めない人もいますが、やっぱりお金は大事です。幸福の基礎は一応は、そこにはあります。
一家で、年収470万円(かつては630万円)が一応の目安です。
(武田邦彦)

●環境や家族やその他の人間関係に恵まれている幸福。
ものわかりのよい親、働き者で優しい夫、優秀で性格のよい子供がいることは、通常は、幸福。

この1階で、恵まれていない人が世の中には多いのも事実です。
(武田邦彦)

しかし、2階、3階、4階と登ると、その幸福は否定されていく。そこに幸福な人生を送る難しさがある。

2階:300万の収入でも600万円の収入でもまったく変わらない幸福(自分が中心ではない)

●1階は自分中心だったが、2階では、周りに評価されたり、喜んでもらったり、そういうことで幸せを感じることが生活の中心になる。

ひとりで壁に向かってカレーライスを食べるより、仲間と食べた方がカレーライスがもっとおいしくなるのは間違いありません。
(武田邦彦)

私は一人でレストランに入って、ワインやビールを注文して楽しめるタイプです。好きなものは自分一人で食べる方がいいと思うことや、一人の方がかえって自由に美味しく食べられることもあります。

●たとえば自分がより貢献できると思えば、600万円の収入より300万円の収入を選ぶという心境になれたら、それが2階に上がった証拠。

●実際には恵まれていなくても、恵まれた気分でいられる状態なので、2階まで行くとほとんどの悩みはなくなる。

武田邦彦は40歳ごろに2階に上がった

武田氏は、お金に関係なく自分のやりたいことを選べるようになった40歳頃、薄くなっていた髪の毛が生えてきて、心理的にもラクになり、病気も治って、それまで禁止されていたお酒やスポーツも解禁になった。

2階の幸福例:山本周五郎「風鈴」

2階の例として挙げているこの小説を、武田氏は100回、200回と読んで、その度に、自分がまだ1階にいたと思わされる。

青空文庫で読める短編だが、以下に該当箇所を抜き書きした。

「風鈴」の、初出時の題名は「生き甲斐」でしたが、生きがいは幸せを感じるために必要な要素ともいえそうです。

主人公は三姉妹の長女。15歳で両親をなくしたあと、妹二人の母親役をこなした。

妹たちは二人とも裕福な家に嫁いで幸せになり、長姉本人は、養子となった実直だが稼ぎの少ない夫と元の実家で細々と暮らしていたが、そんな長姉のところに、ぜいたくな生活をしている妹たちが遊びに来る。

妹たちは、昔の風鈴がそのままぶらさがっている、相変わらず質素な実家を見下したように眺めたあと、三姉妹でいっしょに温泉旅行に行こうと長姉を誘う。旅行の経費は自分たち持ち、留守の間に長姉に代わって家事をする女中も手配すると言うのだが首を縦に振らない長姉に対し、妹は憐れんで以下のように言う。

「お姉さまこんなにして一生を終っていいのでしょうか、いつまでもはてしのない縫い張りやお炊事や、煩わしい家事に追われとおして、これで生き甲斐がいがあるのでしょうか」

「生活をお変えにならなければ」

「下男や下婢にできることは、下男や下婢におさせなさるがよろしいわ、そしてお姉さまご自身もっと生き甲斐のある生活をなさらなくては、もっとよろこびのある充実した生きようをなさらなくてはね、そうお思いになりませんか」

山本周五郎「風鈴」より

長姉の夫は、それまで何度か、もっと給料のいい仕事への転職のチャンスがあったのだが、断り続けていた。妹たちの訪問のあと、長姉は、すっかりみじめで不幸な気持ちになって沈んでいたところに、また、客人が夫の転職話を持ってきた。長姉は、こんどこそ夫が転職話を受けてくれるようにと祈るような気持ちで、隣の部屋で固唾を吞んで聞き耳を立てている。

夫の答えはこうだった。

「やっぱり私には今の役目が身に合っていると思いますので……。」

「……こんどの話がどうして始まったか、推挙して呉れる人の気持がどこにあるか、私にはよくわかっています」

「その人たちには私が栄えない役を勤め、いつまでも貧寒でいることが気のどくにみえるのです、なるほど人間は豊かに住み、暖かく着、美味をたべて暮すほうがよい、たしかにそのほうが貧窮であるより望ましいことです、なぜ望ましいかというと、貧しい生活をしている者は、とかく富貴でさえあれば生きる甲斐があるように思いやすい、……美味うまいものを食い、ものみ遊山をし、身ぎれい気ままに暮すことが、粗衣粗食で休むひまなく働くより意義があるように考えやすい、だから貧しいよりは富んだほうが望ましいことはたしかです、然しそれでは思うように出世をし、富貴と安穏が得られたら、それでなにか意義があり満足することができるでしょうか」

「……おそらくそれだけで意義や満足を感ずることはできないでしょう、人間の欲望には限度がありません、富貴と安穏が得られれば更に次のものが欲しくなるからです」

「たいせつなのは身分の高下や貧富の差ではない、人間と生れてきて、生きたことが、自分にとってむだでなかった、世の中のためにも少しは役だち、意義があった、そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題だと思います、人間はいつかは必ず死にます、いかなる権勢も富も、人間を死から救うことはできません、私にしても明日にも死ぬかもしれないのです、そのとき奉行所へ替ったことに満足するでしょうか、百石、二百石に出世し、暖衣飽食したことに満足して死ねるでしょうか、否、私は勘定所に留まります、そして死ぬときには、少なくとも惜しまれる人間になるだけの仕事をしてゆきたいと思います」

山本周五郎「風鈴」より

この言葉を聞いた以下の長姉の反応が、武田氏に言わせると、長姉が2階に上がった瞬間ということになるのだろう。

膝を固くし頭を垂れていた弥生は、みえるほどからだが震えるのを抑えることができなかった。感動というよりは慚愧(ざんき)に似たするどい思考が胸につきあげ、それが彼女を二つにひき裂くかと思えた。――生き甲斐とはなんぞや、ながいこと頭を占めていたその悩みが、いま三右衛門の言葉に依ってひとすじの光を与えられた。それはまぎれもなく暗夜の光ともたとえたいものだった。――貧しい生活をしていると富貴でさえあれば生き甲斐があると思いやすい、良人は今そう云った。自分が思い惑ったのも、つきつめれば妹たちの暮しぶりをみ、その非難を聞いて、自分の生活よりは意義があり充実しているように考えたからだ。なんというあさはかな無反省なことだったろう、

山本周五郎「風鈴」より

3階:運命を受け入れ、不運をなにげなく克服できる幸福

武田氏は、57歳のときに右目を失明した。それまでも病気がちだったので、病気には慣れていた武田氏だったが、このときの恐怖心や動揺は大きかった。しかし、これは自分が望んだことではない、向こうからくる運命であり、それを自分がどう対処するかが問題なのだと捉え、割と平然と乗り切れた。

●どんなに不運に見舞われても、心が動揺しない状態でいることができれば、それは、人生のほとんどを幸福で過ごせるということになる。

●病気や怪我だけでなく、たとえば受験に不合格だったことも向こうからくる不幸であり、仕方がない。それを、仕方がないと無理矢理に思うのではなく自然に受け入れられることがポイント。不運を自然に受け入れるその典型例として、武田氏は、アンデルセン童話の「すずの兵隊さん」を挙げていた。

3階の幸福例:アンデルセン「スズの兵隊さん」

「スズの兵隊さん」には、「鉛の兵隊」という邦題もありますが、3階の住人例としては、原題に入っているこの兵隊さんの形容詞を強調したいところです。

しっかりもののスズの兵隊さん(デンマーク語の原題, Den Standhaftige Tinsoldat / 英語, The Steadfast Tin Soldier)」という形容詞を入れた邦題もありますが、steadfastの「しっかりした」は、「不動の」、「ぐらつかない」という意味です。1本足でもぐらつかない、というところが3階の住人らしいですよね。

しっかりものの兵隊さん(あらすじ)

ある男の子の誕生日祝いに、古い錫(スズ)のさじから作られた二十五人のスズの兵隊が送られた。その中の最後に作られた兵隊は材料のスズが足りなくなり一本足であった。一本足のスズの兵隊は紙を切り抜いてできた踊り子の人形に思いを寄せる。その踊り子は一方の足で立ち、もう一方の足を高く上げていた。一本足の兵隊は踊り子も自分と同じ片足であり彼女が自分のお嫁さんにぴったりだと考えたのだった。

あくる朝、兵隊は窓から階下に落ちてしまう。町の子どもが兵隊を拾い紙で作った船に乗せて溝へ流した。流された兵隊は滝から落ち、最後には魚に飲み込まれてしまう。魚は人間に捕まえられ、偶然にも男の子の家に買われてもとの場所に戻ったが、男の子は暖炉の中に兵隊を放り込んでしまう。兵隊が燃えていくなか、風が吹き、紙の踊り子は風に乗って暖炉の兵隊のそばに飛ばされ焼け失せてしまった。一本足のスズの兵隊もだんだんと溶けていき、小さな塊になってしまった。

次の日に暖炉の灰をかき出すと、兵隊はハート型の小さなスズのかたまりになっていた。

アンデルセン「スズの兵隊さん」ウィキペディアより

童話を読みたい方は、青空文庫で。

3階のさらに高度な例:アンデルセン「人魚姫」

武田氏によると、同じアンデルセンの作品でも、「すべてなくなってしまう」運命を受け入れたという点で悲惨さがより際立つ結末の「人魚姫」は、「スズの兵隊さん」を3.2階とすると3.6階に相当するということだった。

「人魚姫」(青空文庫)

4階:”不幸”がなくなる幸福

「何が起きても幸福である状態をつくるにはどうしたらいいか」を会得した段階だが、冒頭の武田氏のコメントにあったとおり、ここは、1階でうろうろしている私たちが聞いても、馬の耳に念仏ということらしい。

動画内容でとくに賛同できなかった点

わたしがたくさんある中から適当に選んで視聴した武田氏の幸福論はこちらの20分動画

とても面白くて参考になりましたが、最後のところは反論したくなってしまいました。

まず、司会者が、マズローの欲求5段階仮説の頂点である自己実現も、しょせん自分の欲求を満たそうということにすぎないので武田理論の1階レベルだと言っていましたが、それはマズローの間違った理解だと思います。

それを受けて武田氏も、西洋の理論は日本人には合わないし、自分が中心で自分が得をすればいいのが西洋人、日本人はそれでは満足は得られないとおっしゃっていましたが、西洋人と日本人の違いについては、もう少し丁寧な考察が必要なのではないかと思いました。

私は武田氏の「不幸」という言葉に引っかかりました。悩むことや辛い体験をすることと、自分を不幸だと思うことは違うと思います。

長時間かけてこのブログを書いて寝たあと、早速、この幸福理論に関連するような興味深い夢を見ました。

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