過酷な幼少期を送った女性が、養育者から与えてもらえなかったものとして、9つの項目(関心、承認、自己肯定感、満腹感、励ましやサポート、共感、「あなたのことを愛している」ということば、公平な扱い、保護)を挙げている。この人の体験がこのまま当てはまらなくても、たとえ恵まれた幼少時代を過ごした人でも部分的・心理的に該当する経験を持っている人は多いと思う。以下、アメリカ人女性の手記の内容を訳して紹介する。(4,300文字)
親から愛されなかった私が欲しかった9つのもの
はじめに
ほとんどの子どもたちは、自分の親に問題があるということに気づかないで育ち、少し大きくなって友達の親や親戚など他人の”ふつうの親”に接して初めて、それを察し始める。わたしの場合も、友達の家に行ったとき、その子のお母さんが、友達にもわたしにもとても優しいので衝撃を受けた。
リン・リター(以下も同じ)
自分のことだけがかわいいナルシシスティックな母親に育てられることで決定的に欠けてしまうのは、ひとことで言えば自分は愛されているという感覚に尽きるが、具体的には、与えられなかったこととして以下の項目を挙げることができる。
1. 関心 Attention
わたしが母の膝の上に座ろうとするといつも、「イモムシが来たわ」と面倒くさそうに母に押しのけられた。
2. 承認 / Affirmation
「なんであなたはXXちゃんみたいに(ピアノが、運動が、勉強が、作文が・・・などなどが)できないの?」「XXちゃんのママはあんないい娘を持ってて羨ましいわ。」が母の口癖だった。
3. 自己肯定感 / Self confidence
6歳のころ、わたしが「大きくなったら映画スターになりたい」と言ったとき、母は冷たく「無理ね。映画スターって容姿端麗じゃないといけないけど、あなたは違うもの。」と言った。今だにあのときのことを思い出すと悲しくなる。
これって、もしかしてあなたが可愛くて、お母さんは嫉妬してたんじゃないですか?
(手記の書き手、リンが上のコメントに答えて):わたしは母と違って髪の毛はブロンド、目は緑色だったので、よく周りの人に母と全然似ていないと言われていました。それで母に嫌われていると思っていました。
4. 満腹感 / Enough to eat
母子家庭で貧しかったということは仕方がない。でも思い出すのは、母がチキン3片を料理したときにはまず母と兄が先においしいところを取り、わたしはいちばんおいしくない部分しかもらえなかったこと。たまごが2個しかないときには、わたしはパンしかもらえなかったし、パンがふた切れしかないときは、わたしは何ももらえなかったこと。小学校に入り、週末以外には毎日おいしい給食が食べれるようになったときは夢のようだった。
5. 励ましやサポート / Encouragement and guidance
小学校にあがるとき、自分の苗字も知らなかったわたしは、当然、文字も書けなかった。母はわたしの服に名前と住所を書いた札をピンで留め、わたしは、これから何が始まるのかもわからないままスクールバスに乗せられた。バスの中で、周りの子どもたちに、お前は何も知らないからこれから学校に行って先生に叱られるよと言われてわたしは泣いた。わたしが恐怖に震えているのをかわいそうに思ってくれた年上の女の子が、30分の道中で、アルファベットと、わたしが自分の名前をどう書くか、そして20までの数の数え方を教えてくれた。母がせめてわたしの苗字だけでも教えてくれていたら、わたしはあれほど不安にならなくてすんだだろう。
6. 共感 / Empathy
精神を病んでいた兄がわたしの飼っていた小鳥を殺したことがある。兄がウサギをいじめていたのを見るに耐えられず、わたしがそのウサギを逃したので兄が怒ってそうしたのだ。そのとき母は、兄のウサギを逃したわたしが悪いと言い、泣いているわたしに向かって、すぐに泣きやめないとおしおきすると脅した。
7. 愛しているという言葉 / Love
わたしは母から一度も”I love you.”と言われたことがない。死にかけている母の枕元で、わたしは母に”I love you.”と言った。そして母の頬にキスしようと顔を近づけたが、母は何も言わずにくるりと背を向け、わたしのキスは母の後頭部の前で虚しく宙に浮いた。
まったく同じ経験をしました。最後の瞬間にも背を向けられたあのときのことは、人生最大の屈辱ともいえる一生の傷となった気がします。
親に虐げられていたかわいそうな妹が、部屋の隅っこに行って、飼い犬に向かって「お願いだから、あなただけはわたしのこと好きでいてね。」と囁いていたのを思い出して、今も涙が出ます。
自分の子どもを拒絶する親って、自分は「”子どもを愛する”という自然の法則を無視してもよい特別な人間」だと思っているみたいだけど、子どもを愛さない親って本当に最低だし親になるべきじゃないと思う。
わたしの母はわたしが40歳になっても、いまだにわたしが言うことはなんでも間違っていると言うし、わたしの子どもにまで同じことをしようとする。わたしは母の悪影響が自分の子どもにまで及ぼされることは断じて許さない。
友達にひどいことをされたら縁を切るように、自分の親にだってそうするべき。社会は家族を愛せというけど、わたしを愛していない親をなぜわたしが愛さなければいけないの?
8. 公平な扱い / Fair treatment
精神を病んだ兄がわたしに何か悪さをして母が兄を叱らなければならないとき、わたしも必ず兄といっしょに殴られた。いまだに、どうしてそうされたのか納得できない。
9. 保護 Protection
ウチの家の一室を小児性愛の変質者が間借りしていたとき、わたしはその男に性的ないたずらを受けた。それを知りつつ母は、わたしを病院に連れていくことも警察に通報することもなかったばかりか、その男を追い出しもしなかった。わたしより部屋の賃貸料が大事だったのだ。義理の兄がわたしがいたずらを受けている現場を目撃し、その男をボコボコに殴ってウチから追い出したとき、母は義理の兄に憤慨して、それから何年も口をきかなかった。もらえなかった部屋代のことをずっと恨んでいたのだ。(変質者のその男は、その後、ふたりの男の子をレイプして逮捕された。)
おわりに
世の中には、わたしよりもっと悲惨な幼少時代を送った人がいくらでもいるし、わたしに同情してもらいたいとは思わない。こんな母に育てられたが、わたしは自分でも驚くほどたくましく、まっとうに成長し、強くて自立した自分に自信のもてる大人になれた。何年間も受けた心理療法も役に立ったので、ナルシシスティックな親からネガティブな影響を受けている人にはカウンセリングを受けることをお勧めしたい。
リン・リター(Lin Ritter)
そして子ども時代のトラウマを抱えて身動きできなくなっている人たちに、先に進めと伝えたい。わたしたちはみんな、虐待を受けたという過去を乗り越える力を持っているのだから。わたしが信じている自分自身のこの力を他の人たちにも信じてもらいたい。
とはいえこの手記を書いていて、おなかをすかせていたときのことを思い出したときには涙があふれて止まらなかった。過去のトラウマをまだ克服できていないのかもしれない(笑)。もしかすると、どんなに笑顔でいられるようになっても、一生、完全に克服することはできないのかもしれない。
読者からのコメント
毎日、帰宅するのがこわかった子ども時代を思い出しました。ひどい親だったので、一体、どんなことが待ち受けているか想像もできなかったのです。
項目全部、当てはまりました。この手の親たち、ハンドブックでも持ってるんでしょうか(笑)。付け加えるとすると、わたしの母親は、わたしが友人のやさしくて素敵なお母さんの話をすると、「こどもを甘やかすなんて、バカな親のすることだ」と軽蔑していました。
小学生のとき、学校でちょっとした問題が起きた子の親たちが、その子を助けるためや先生と話すために学校に来る度に驚いた記憶があります。親がそんなことするなんて変だと思ったぐらいです。わたしは親から愛しているなんて言われたこともないし、そもそも関心をもたれたこともありませんが、それがふつうだと思って育ち、自分の親が愛情に欠けていたのだと気づいたのは最近のことです。
最後に、長いコメントを引用する。
わたしの両親は裕福で、わたしが12歳になるまでいたお手伝いさんが、家事も育児もやっていました。わたしのことをとても可愛がってくれたそのお手伝いさんのことがわたしは大好きでとても慕っていたのですが、わたしがちょうど12歳になったのを区切りとして彼女は解雇となりました。お手伝いさんもわたしと離れるのを辛がってくれて、辞めさせないでほしいと母に嘆願しましたが、母は容赦無く、お手伝いさんがいなくなってしまったその日からわたしの人生は一変しました。
たとえば別荘で休暇を過ごして、夜、自宅に戻って「今日の夕食は?」と聞いても、母は「パンにチーズでもはさんで食べたら?」と言うだけでした。ほとんど空っぽの冷蔵庫に残っていた干からびたスライスチーズは端っこが変色していました。ダイエット中だった母は自分は帰宅したら寝るだけだったので、育ち盛りのわたしのことなど気にも留めていなかったのです。
両親の手がかかるので、ペットもだめ、ピアノのレッスンもだめ、極めつけは、母がコンプレックスを感じて気分が悪いという理由で、名門の法律学校への入学も許可されませんでした。(奨学金を得て、自力でもっとランクの低い学校に行きました。)
海辺の別荘やヨットの維持費、老後のための蓄えを差し引いても両親には有り余るお金がありましたが、父こそ贅沢な老人介護施設に9年間いたものの、母は、交通事故で即死したので、結果的に、彼らはあそこまでお金に執着しなくてもよかったといえます。両親は、わたしが12歳になったときにお手伝いさんに払うお金がもったいないと思ったのですが、人によって価値観や優先順位は違うので仕方がないとはいえ、彼らぐらいの財力があれば、わたしなら子どもにあれほど愛情を向けてくれた人をあのようにあっさり切り捨てることはしないでしょう。
現在わたしは64歳です。わたしがどんな親になったと思われますか。わたしは母のようになってしまうかもしれないのが怖くて親にはなりませんでした。代わりに法律家として、仕事で出会う顧客を自分のこどもだと思って助けることで、自己満足しています。
※この記事は、コメントを含め以下の英語ページをとーなんが拙訳したもの。
https://www.quora.com/What-do-you-miss-when-you-have-a-narcissistic-mother