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溱かなえ「母性」

いただきものの本、溱かなえの「母性」(新潮文庫)を読み出したら、やめられなくなって、あっという間に読み終えました。

ずっしり来る本です。

母娘関係に心理的テーマを持つすべての女性にお勧めしたい本ですが、とくに、「素敵なお母さん」や「いいお母さん」をお持ちの方に、そしてご自身がそんなお母さんでいらっしゃる方には、必読書と言いたいぐらいです。

巻末の間室道子氏の解説がこれまたよくて、それだけ読んでも面白いので、引用させていただきます。

独白や手記の形式で物語が進行していくとき、手法としての「信用できない語り手」というのがある、というところから解説が始まります。たとえばわかりやすいところで、詐欺師や精神が不安定な人。そして、意外なのが「とってもいい人」。

善人を自負する語り手には自分は何ひとつ間違っていないというかたくなさがある。ささいなことでも否定されれば、人生すべてを木っ端微塵(こっぱみじん)にされたぐらいのショックを受ける。それに自分でうすうす気づいてるから、とってもいい人のとってもいい言動は、武装のような威嚇や脅威で他者に迫る。反論は一切許さない。もしくは耳に入らない。その理論ややり方は、ほんとうは、穴だらけなのに。

本の内容はさておいて、間室道子氏、これだけでもうあっぱれです。
「善人を自負する、とってもいい人」と関わったときの、なんとも言えない居心地の悪さのゆえんを、実に見事に表現してくれています。

さらに要注意な語り手に「苦しんでいる子供」がある。精神的に、肉体的に、苦しんでいる子供は、思い出を美化したり、逆にたわいもないことを針小棒大にして覚えていたりするので、語り手として信用できないのだ。

「苦しんでいる子供は、思い出を美化したり、逆にたわいもないことを針小棒大にして覚えていたりする」というのも、鋭い指摘です。

「母性」の「母の手記」の書き手がとってもいい人であり、「娘の回想」の書き手が苦しんでいる子供である。二人が母娘というのが、悩ましいところ。二大「信用できない語り手」の激突で、本書は進むのである。

「母の手記」は<私>という漢字の一人称で進行する。<私>は、お母さん(※つまり手記の書き手である「母」の母親)を全身全霊で愛している。感心しながら行を追うが、そのうちどんどんへんな気分になってくる。「私は母の分身なのだから、同じものを見て違う思いを抱くなど、あってはならないこと」だの「母に隠し事をしたことは、生涯一度もありません」だの、おいおい、と突っ込みたくなる言葉があちこちにまき散らされ始める。ふつう、いい人が歪むというと「悪に走る」とか「グレる」とか思いがちだが、いい人がいい人のままねじ曲がっていくのを読者は目の当たりにする。

「おいおい、と突っ込みたくなる言葉」そのものは、ここまで誇張されて聞かないまでも、自分の母親のものの見方や価値観を基準にして自分の人生を生きている娘や、母親と一心同体であるかのような娘は少なくありません。そして「いい人がいい人のままねじ曲がっていく」とき、その曲がり具合は、本人にはもちろん周囲にも、なかなか見えにくいもののような気がします。

<私>は24歳で、絵画教室で知り合った男と結婚する。決め手は、この男の誘いに乗ったりプレゼントをもらったりすると、お母さんが幸せそうだから。相当な重症である。

お母さんを喜ばせるために自分の人生の重要な選択をする娘もまたありふれた娘と言えます。わたしもかつては、そんなありふれた娘でしたが、美化されることも多い娘のそんな行動を「相当な重症」だとはっきり言ってもらうと、気持ちいいですね。

「娘の回想」は、ひらがなの<わたし>で進行する。「漆黒の闇の中で思い描くのは」という言葉で始まり、「今いるこの闇は永遠に明けないような予感がする」という不穏な言葉が続く。

こんな<私>と<わたし>であるが、互いへの思いはまあみごとにくい違っている。「母の手記」には<私>がどれだけ娘を大切に育ててきたか、娘に愛情を注いでいたかという言葉があふれ、「娘の回想」には「母から殺したいほど憎まれる」「胸を切り裂かれるような言葉を投げつけられ」とある。

一方が覚えていることを、一方は覚えていない。たまに同じできごとを語っていても、双方で受け止め方がまるで違う。心配させまいと涙をこらえる顔は、相手には自分に対する仏頂面にしか見えない。一方は、強く抱きしめるため、両手を伸ばしたと綴り、一方はそれで首を絞められた、と言う。さすが、信用できない語り手たち!

こんなに真っ向から対立する<私>と<わたし>の言い分なのに、彼女たちは全く同じだとも言える。「自分はこんなに相手を愛しているのに、相手にはそれが伝わらない」というひりつく思いで、心が炎上寸前なのだ。

あまりにどちらも信用できないものだから、母である<私>と娘である<わたし>は、読み手の中でどんどん混じり合う。最後には鬼姑さえ巻き込んで、一つの存在になっていく気が得る。それは「女」だ。

鬼のような姑もなかなか興味深いキャラなのである。嫁である<私>をこきつかいながら、自分の娘たちには家事や農作業をさせない。彼女もまた「母」であり、嫁は理由なく憎いが娘は理由なく可愛いのである。

壮絶なドラマの中で男たちはどうしているかというと、ほんとうに存在感がない。というか、とんちんかんである。

ありがち。(笑)

・・・ここもここもとタイプしているうちに、引用箇所が膨大になってしまいました。

読み応えのあるこの素晴らしい解説を書いた間室道子(まむろみちこ)氏、気になって調べてみたら、青山ブックセンターに20年以上勤務した後、2011年から代官山の蔦屋書店でシニア・コンシェルジュとして働いている書店員さんでした。実家が岩手県の本屋さんで、幼い頃から本を読むのに慣れ親しみ、文庫本はたったの30分で読めるそうですから、こんな重い本もさらっと読んで、こんな解説もさらっと書けるのでしょう。わたしなんて、解説だけでも30分以上かけて熟読しましたが。

「元祖カリスマ書店員」と呼ばれる業界の有名人で、NHKでテレビ出演したこともあるようです。「天職」を見つけて活躍している人が、いろんなところにいるのですね。「天職を見つけて活躍している人」を見つけると元気をもらえます。
http://blog.livedoor.jp/b00ks/archives/4510833.html

本題の本、「母性」(新潮文庫)は、湊かなえ氏(1973年生まれ)の11冊目の著書で、2012年のハードカバー発売時の本の帯の文句が「これが書けたら作家を辞めてもいい。その思いを込めて書き上げました。」という気合の入った力作。単純計算して39歳の時の著書です。

発刊を記念したインタビューで、湊は「誰もが「母性」を持ち、「母」になれるとは限らないのではないか。幸せな家庭で育ち、いつまでも愛するあのひとたちの子どものままでいたい、庇護され続けたい。「母」であるよりも「娘」であり続けたい、とどまり続けたい。そう思っている女性も、きっといるはずです」と述べている。

そして、「『母性』を持っていないかもしれないと思ったとしても、「私は『母性』を持っていないんですよ」と開き直ることができない」と言う。母性という“神話”が、母親たちを追い詰め、苦しめている――毒親の存在が社会問題としてクローズアップされるいま、この小説が描き出す“母と娘”の姿に、議論されるべきテーマが隠されているかもしれない。
http://ddnavi.com/news/99069/a/より)

母性 (新潮文庫)

湊かなえの略歴

1973年、広島県因島市の柑橘農家に2人姉妹の長女として生まれる。
広島県立因島高等学校を経て、武庫川女子大学家政学部被服学科へ進学。
大学卒業後アパレルメーカーに就職して1年半勤務の後、2年間青年海外協力隊隊員としてトンガへ。帰国後は、淡路島の高校で家庭科の非常勤講師となる。
27歳の時に結婚し、28歳の時に第1子を出産。第2子になかなか恵まれなかったことから「何か新しいことに挑戦したくて」脚本、小説の投稿を始める。
2008年のデビュー作「告白」 (双葉文庫) は、松たか子主演で映画化(2010年)されて大ヒット。書籍の売上も累計300万部を超える空前の大ベストセラーとなり、作者の名とともに”イヤミス(読んだ後に嫌な気分になるミステリー)”というジャンルを世に広めた。
(ウィキペディアの内容を編集して引用)

単純計算で35歳時のデビュー作「告白」 (双葉文庫) には、息子を溺愛するあまり冷静に現実を直視できない、やはり「歪んだ母親」が登場するそうで、これも面白そうです。

母としての自分に間違いはないと自負する。そして、すべては担任教師のせいだと盲信。“はずれくじを引かされてしまっただけ”と考え、息子が不登校になっても、「ひきこもりの原因は家庭にある。その理屈で考えると、直樹は絶対に“ひきこもり”ではありません」と信じてやまないのだ。自分の理想と現実のズレを、かたくなに認めない。その態度は、まさしく“毒親”の典型例といえよう。
http://ddnavi.com/news/99069/a/より)

アマゾンレビューでも、「読み始めたら止まらない。ぐいぐい引き込まれる。しかし、読んでいて楽しいわけではないという何とも奇妙な読後感。」「非常に重たい作品であるが一気に読めた。」などと、わたしが「母性」を読んだ時と似たような感想が寄せられていました。

「告白」 (双葉文庫)

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